1 パルマの醜聞

文字数 2,366文字

 1833年。
 兄のフランツ帝から、弟ヨーハン大公に、結婚公表の許可が下りた。

 郵便局長の娘、アンナとの正式な結婚から、4年。
 知り合ってからは、実に24年の歳月が流れていた。

 冷静に、ヨーハンは、兄の言葉を受け止めた。
 アンナの故郷シュタイアーマルクでは、二人の結婚は広く知られ、祝福されている。
 公表することが、それほど重要だとは、もはやヨーハンには思えなかった。

 王座の兄の額には、深い悲しみの皺が刻まれていた。
 兄は去年、孫を亡くしたのだ。第二の息子とも見做していた、最愛の孫を。

 「マリー・ルイーゼはどうしています?」
 ホーフブルク宮殿での謁見の後、ヨーハンは尋ねた。
 尋ねずにはいられなかった。


 4年前。兄の皇帝が、ヨーハンとアンナに正式な結婚を許可した年。
 パルマで、ナイペルク将軍が亡くなった。
 ナイペルクは、パルマの執政官だけではなかった。彼は、マリー・ルイーゼの夫でもあった。二人は、極秘の結婚をしていた。




 亡くなる直前、ナイペルク自身が、手紙を送ってきた。
 遺書だった。
 それによると、マリー・ルイーゼとの間には、子どもが二人いるという。自らの死に臨んで、ナイペルクは、この子どもたちの行く末を、案じたのだ。
 結婚は、マリー・ルイーゼの前夫、ナポレオンの死の、3ヶ月後のことだという。

 遺書を読んだ宰相メッテルニヒに問い詰められ、マリー・ルイーゼは、子どもたちの誕生は、前夫(ナポレオン)の生前のことだったと告白した。


 皇帝と皇妃(皇帝の4番めの妻。マリー・ルイーゼの継母)は、驚くほど寛大だった。特に皇帝は、かつて娘を、ナポレオンに嫁がせたことを痛ましく思っていた。





 ……娘は、(オーストリア)の犠牲になったのだ。
 皇帝夫妻は、娘の告白を温かく受け止め、責めることはしなかった。

 ただ……。
 皇帝に連なる大公や公女は、所領を持たぬ者との結婚を禁じられている。たとえ相手が貴族であっても、だ。彼らには、恋愛の自由などない。

 ナイペルクは、皇族ではない。大公女であるマリー・ルイーゼとの結婚は、だから、貴賤婚だった。
 ヨーハンとアンナと同じく。

 ヨーハンがアンナとの結婚を許されたのは、まさしくこの、ナイペルクが亡くなった年だった。マリー・ルイーゼは、その前の年の夏、里帰りした際に、結婚の事実だけを、父の皇帝に告げている。
 つまり、皇帝は、娘の貴賤婚を知り、それが公になる直前に、(ヨーハン)の結婚を許したわけで……。


 深い深いため息を、皇帝はついた。
(マリー・ルイーゼ)なら、息災だよ。この秋にも、娘のアルベルティーナが結婚すると言ってきた」

 アルベルティーナは、ナイペルクとの間にできた、上の子である。皇帝の孫に当たるが、貴賤婚でできた子ゆえ、皇族として認められていない。
 ヨーハンとマリアの間には子はいない。だがそれは、救いなのだろうか……。

 しわがれた声で、皇帝は続けた。
「相手は、パルマの参事官、サンヴィターレ伯爵だ」
「サンヴィターレ伯爵ですって!?」

 その噂は、世事に疎いヨーハンの耳にさえ、入ってきていた。サンヴィターレ伯爵は、マリー・ルイーゼの情夫だというのである。
 自分の情夫を、娘の夫にするとは!
 だがそれは、逆に、マリー・ルイーゼが潔白である証なのかもしれなかった。

 ナイペルクに死なれてから、マリー・ルイーゼの艶聞の噂には、耳を覆いたくなるものがあった。子どもの家庭教師をはじめ、とにかく、手当たり次第、男を、部屋に引き入れている、というのだ。
 嘘か誠かわからぬが……。
 ……彼女が、護衛管を自室に引きずり込むので、護衛をする者がいなくなってしまった。護衛官を二人にすると、二人とも姿を消した。それなら、と倍の4人にしたら、4人とも、いなくなってしまった……。
 ……という話まで伝わってきた。

 サンヴィターレ伯爵については、マリー・ルイーゼは、彼の子どもを堕胎しているという噂だった。しかもそれは、ちょうど1年前……彼女がウィーンに置き去りにした息子(皇帝の孫)が亡くなった年だというのだ。

 フランツ。
 ヨーハンがかわいがっていた、ナポレオンの息子。
 あの優美な青年は、1832年7月、結核で亡くなっていた。

 彼の死に際に、母は、なかなか会いにこなかった。メッテルニヒに、このままでは皇室の評判が悪くなるからと諭され、ようやく会い来たのは、彼が皇族最後儀式、秘跡の儀を受けた後のことだった。待ちかねた母の訪れに、フランツは、一ヶ月ほと、命を永らえた。
 瀕死の彼の元へなかなか来なかったのは、

、妊娠、そして中絶していたからだと、口さがない連中は、噂していた。

 許しがたい悪口雑言だと、ヨーハンは憤った。
 フランツを惜しむ気持ちはわかる。その母の薄情を詰りたい気持ちにも、同感できる。
 だが、フランツは、母を愛していた。
 彼女を貶めてはならぬのだ。


マリー・ルイーゼ


 「マレシャルなら、解任した」
ヨーハンの心を読んだか、苦々しげに、皇帝が言った。

 マレシャルは、亡くなったナイペルクの後任である。パルマに送られ、執政官を務めていた。
 彼は、ひっきりなしに、公主であるマリー・ルイーゼの苦情や泣き言を、ウィーンに書き送ってきていた。
 パルマ大公女(マリー・ルイーゼ)は、どうしようもない淫乱だ、と。

 だがそれは、単に、女主人とそりが合わないせいだと、皇帝は信じていた。そしてなぜか、オーストリアに帰国したマレシャルを、閣僚なみの人事に抜擢した。

「マレシャルの後任は、ボンベル伯爵を送った。良い人を選んでくれたと、(マリー・ルイーゼ)から、感謝の手紙が届いたよ」
「そうですか……」

 ボンベルは、フランス貴族だ。代々ブルボン王家に仕えていたが、革命の折、一家で、オーストリアに亡命してきた。
 上品で教養の高いボンベル伯爵なら、(マリー・ルイーゼ)の気にいるだろうと、ヨーハンは思った。










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登場人物紹介

カール大公

1771.9.5 - 1847.4.30

(カール大公の恋)


ライヒシュタット公の母方の大叔父。1796年の革命戦争では、ジュールダン麾下サンブル=エ=ムーズ軍、モロー麾下ライン・モーゼル軍と戦い、両軍を分断させ、勝利を収める。1809年のナポレオン軍との戦い(対オーストリア戦)の後は軍務を退き、軍事論の著述に専念する。

レオポルディーネ

 1797.1.22 ‐ 1826.12.11

(もう一人の売られた花嫁)


ライヒシュタット公の母方の叔母。皇帝フランツの娘。ポルトガル王太子ペドロと結婚する。ナポレオンの侵攻を受け、ポルトガル王室は当時、植民地のブラジルへ避難していた。ペドロとの結婚の為、レオポルディーネも、ブラジルへ渡る。

ヨーハン大公

1782.1.20 - 1859.5.11

(アルプスに咲いた花)


ライヒシュタット公の大叔父。皇帝フランツ、カール大公の弟。兄のカールに憧れ、軍人となる。

アダム・ナイペルク

1775.4.8 - 1829.2.22

(片目の将軍)


オーストリアの軍人。フランス革命戦争で赴いたオランダで片目を失う怪我を負うも、捕虜交換の形で帰国した。

ドン・カルロス

1787.初演

(「ドン・カルロス」異聞)


シラー(シルレル)の『ドン・カルロス』は、ライヒシュタット公の愛読書だった。

チャットノベルもございます

「ドン・カルロス」異聞

マリア・テレサ

 1816.7.31 - 1867.8.8

(叶えられなかった約束)


カール大公の長女。

マリー・ルイーゼ

1791.12.12 - 1847.12.17

(2つの貴賤婚)


ライヒシュタット公の母。ナポレオンの二人目の妻、かつてのフランス皇妃。ウィーン会議でパルマに領土を貰い、5歳になる直前の息子を置いて旅立っていった。以後、全部で8回しか帰ってこなかった(最後の1回は、彼が公的に死の宣告をされた後)。

エドゥアルド・グルク

1801.11.17– 1841.3.31

(画家からの手紙)


ウィーンの宮廷画家。メッテルニヒに見いだされ、採用された。グルクの死から約170年後、彼が描いた絵が、モル男爵の屋敷で発見された。モル男爵は、かつてライヒシュタット公の補佐官で、その死の床に最後まで付き添った。

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