3 雪のシェーンブルン

文字数 4,291文字



 1830年の年が明けた。

 女官の目を盗んで忍び出たシェーンブルンの庭園は、寒々として、寂しかった。
 マリアの好きなバラ園は、雪に埋もれていたし、迷路も閉じられていた。噴水さえも枯れ果てている。

 ……「姉上、どこへ行くつもり?」
咎めるような声が、耳に蘇る。

 この頃、マリアの1歳下の弟、アルブレヒトは、ひどく生意気になった。皇帝から、大佐の内示を戴いてからというもの、偉ぶって手がつけられない。
 しつこく問い糾す弟を、無理やり振り切って、外へ出てきた。

 マリアは、ただ、息苦しかった。
 だから、外の空気を吸いたいだけ。
 冷たく清冽な、外の空気を。


 宮殿からまっすぐ歩いて、右に曲がったところに、ローマの遺跡のイミテーション群があった。
 他の季節なら、雑草が生い茂り、いかにも廃墟という印象を与える。だが、冬のさなかの今は、全てが、雪に覆われていた。宮殿の古い石材で造られたというモニュメントだけが、無機質に、聳え立っている。

 ……お母様は、ここがお好きだった。
 ……特に、コリント式の柱と、アーチ型の石の門が。




 だが、大好きだった母はもう、いない。
 去年の暮れに、死んでしまった。
 14歳のマリアには、あまりに早すぎる別れだった。
 鼻の奥が、つんとして、赤くなった。
 ……いけない、この、つん、が、目まで伝わると、涙が出てきちゃう……。

 彼女の父は、他ならぬ、アスペルンの勝者、カール大公だ。その上、彼女は、6人姉弟の、一番上の姉。
 決して、泣いてはいけないのだ。
 ……強くなくちゃ。だって、チビちゃんたちがいるんだから。

 去年の秋、猩紅熱に罹った下の弟たちを看病していて、母もこの病に感染した。肺炎を併発し、あっという間に亡くなってしまった。
 もちろん、弟妹たちは悪くない。そんな風に思ったら、ダメだ。絶対に。神に誓って、マリアは、彼らのせいだなんて思っていない。

 看病なんて、侍女たちに任せておけば良いのにと、陰口を叩く者もいた。

 母は、常に、子ども達と共にいることを選んだ。小さい弟妹を、絶対に、誰かに託そうとしなかった。
 自分の手で、子ども達を育てることが、母の誇りだった。
 それは、多分、父を愛していたから。
 結果として、自らの命を引き換えにしてしまっても、母は、後悔していなかったに違いないと、マリアは思う。

 ……でも、本当は、私は、寂しい。
 もっともっと、母と一緒にいたかった……。
 抑えた筈の熱い何かが、再び、鼻の奥に込み上げようとしている。

 その時、冷たい空気に混ざって、いがらっぽい気配が流れ込んできた。独特の煙っぽさが、鼻のつん、を、和らげていく。
 ……煙草?
 マリアは、踵を返そうとした。今は、誰にも会いたくなかった。

 その人は、コリント風の装飾を施した柱に寄りかかって、煙草を吸っていた。
 金色の髪、背の高い、すらりとした姿……、

 それが誰であるかを悟り、マリアはしゃがみこんだ。足元の雪を握り、ぎゅっと固めた。
 足音を忍ばせ、コリント式の柱の陰に回る。

 自分の煙草の煙にむせてか、その人は、咳き込んだ。
 彼女は立ち止まった。柱に隠れて、様子を窺う。
 咳はすぐに静まり、彼は再び、煙草を口に咥えた。

 マリアは、冷たく白い塊を、大きく振り上げた。
 無防備に煙草を吸っている背中めがけて、力いっぱい投げつけた。

「!」

 雪玉は、柱からはみ出た背中の、肩の辺りに当たって砕けた。
 灰色のマントを着た人が、驚いたように振り返った。フードから、金色の髪が、こぼれるように覗いている。
 青い目が大きく見開かれ、マリアを見つめた。

 その彼に向かい、マリアは叫んだ。
「ライヒシュタット公! あなたは、悪人だわ!」

「マリア大公女」
 煙草を右手の指に挟んだまま、ライヒシュタット公は怪訝そうな顔をした。指先の煙草から、紫煙が立ち上り、空に消えていく。
「私が悪人? なぜ、そのようなことを、おっしゃるのです?」

「だって貴方は、嘘をおつきになったわ! 嘘をつくのは、悪人だって、お父様がおっしゃいましたことよ」
「嘘? 私が?」

 まるで心当たりがない、というように、ライヒシュタット公は首を傾げている。両顎の下辺りに、薄い金色の髭が生え始めていることに、マリアは気がついた。
 色の白い優美な顔と、もしゃもしゃした髭は、ひどく不釣り合いに、マリアの目には映った。

 余計、むしゃくしゃした。

「まあ! お忘れになったのね! あんなに固い約束をしたのに!」
「ええと……」
「お父様が証人です。ええ、貴方は大嘘つきよ!」
「ごめんなさい。なんのことだか、僕には、さっぱり……」

 途方に暮れたように、青い目が瞬いた。

 ……やっぱり。
 ……この人にとって、私との約束なんか、上辺だけのものだったんだわ。
 ……私は、あんなに楽しみにしていたのに。

「貴方は、約束なさったわ! わたしを馬車に乗せて下さるって……年明けの、休暇になったら!」
「ああ!」
ようやく、彼も思い出したようだった。

 年明けから、皇妃の聖名祝日(本人が命名されたのと同じ名の聖人の祝日)までの間、皇族たちは、連れ立って、外へ散歩に出掛ける。劇場に行ったり、プラーターを散策したりして、楽しむ。
 去年の早いうちから、マリアは、ライヒシュタット公の馬車に乗せてもらう約束をしていた。

「でも、今年は……」

 そうだ。
 わかっていた。
 母が亡くなったばかりなのに、彼が彼女を、誘いに来れるわけがない……。

 しかし、溢れ出したやり場のない気持ちは、止まらなかった。
「わたしとの約束なんかすっかり忘れて、どうせ貴方は、ゾフィー大公妃をお乗せしたのでしょう? 今日だって、一緒に、ここ(シェーンブルン)まで遠出してきたに違いないわ!」

 マリアは、残酷な気持ちになっていた。
 この美しい年上の青年を、思うがままにいたぶってやりたい衝動に駆られた。

「貴方なんて、大っ嫌いよ!」

 傍らの大理石から、雪を掬い取った。
 きゅきゅっと丸め、再び、ライヒシュタット公に投げつける。
 雪の玉は、まともに彼の顔にぶつかった。

「嫌い嫌い嫌い!」
叫びながら、ふたつ、みっつと、雪玉を投げて、ぶつけた。

 ライヒシュタット公は、投げ返してこなかった。
 両腕で顔の当たりだけをかばっただけで、その場でじっとしている。
 ……すぐ下の弟(アルブレヒト)や、下の弟妹(チビちゃんたち)と違う。

 それでも、止められなかった。
 マリアは雪玉を丸め、投げ続けた。
 しまいには腕が疲れ、固めもせず、掬ったまま、放った。

 投げたはずの雪が、ぱらぱらと、彼女自身の上に落ちてきた。

 「気がお済みになりましたか」
 穏やかな声が聞こえた。
 さくさくと、雪を踏む足音が近づいてきた。
「ああ、あ。ご自分に、かかってしまって、」
ばさばさと、毛皮のコートをはたかれた。

 ライヒシュタット公は、革の手袋をしていた。黒い手袋の指先から煙草がなくなっていることに、マリアは気づいた。いがらっぽい匂いも消えていた。

「……ごめんなさい」
消え入るような声で、マリアは囁いた。
「何がです?」
「……煙草を、落としてしまったわ」

弾かれたように、ライヒシュタット公は笑いだした。

「いいんですよ。喫煙は、悪習です。貴婦人の前で吸うと、叱られてしまう」
「貴婦人?」
「貴女ですよ、マリア大公女」

 ぱっと、マリアの頬が赤く染まった。
 知らんふりをして、彼は続ける。

「それから、今日は私は、一人で来ました。ゾフィー大公妃は、ご一緒ではありません」
「本当に?」
「ええ。軍の教練の後は、シェーンブルンで、乗馬と学科の授業を受けるのが習慣なんです」
「……そう」

 心の霧が、ぱっと晴れたように、マリアは感じた。


 母の死だけでも、辛く耐え難いことだった。それなのに、無神経な残酷さが、後を追ってきた。
 母を、ハプスブルク家の墓所へ入れまいとする声が、マリアの元まで聞こえてきた。母は、プロテスタントだから、カトリックであるハプスブルク家の墓所には入れない、というのだ。

 ……ひどい。
 いつもは穏やかな(カール大公)も、さすがに憤怒の色が隠せなかった。

 ……「生きていた時に我々と一緒にいた者は、死して後も、一緒にいるものだ」
 この騒動は、皇帝の一声で、解決した。母は、無事にカプチーナ礼拝堂に埋葬された。

 だが、それだけでは収まらなかった。母が祈りを捧げていた礼拝堂が、取り壊されることが決まったのだ。ひっそりとした、プロテスタントの礼拝堂だ。マリアは、何度も母に連れられて行ったことを、よく覚えているというのに……。


 「お辛いことがあったら、体を動かすといいですよ」
ライヒシュタット公が言った。甘く優しい声だった。
「貴女は、乗馬はされないのですか?」
「乗馬? 教えて下さい、ライヒシュタット公」

ふふ、っと、端正な美貌がほころんだ。
「でも、貴女に近づくと、カール大公(あなたのお父様)に叱られますから」
「父が? 叱る?」
「ナポレオンの息子に娘を取られるのは、おいやなのでしょう」

 マリアはまだ、14歳だった。
 そして、父は愛する母を亡くし、憔悴し切っていた。
 父の忠実な娘として、彼女はいつも、父のそばにいてやりたかった。
 でも……。

「……ナポレオンの息子とか、プロテスタントとか、」
低い声で彼女はつぶやいた。
「どうしてみんな、そんな風に言うんでしょう」
「……」

 ライヒシュタット公は、すぐには答えなかった。美しい彫像のように、じっとしている。
 まるで、自らの心の裡を覗き込んでいるように、マリアには、感じられた。

 やがて、彼は言った。
「さあ。私にもわかりません」


 にび色の雲が途切れ、薄日が差してきた。
「そろそろ宮殿に戻りましょうか」
 ライヒシュタット公は、マリアに手を差し出した。
 黒い革手袋が嵌められたその手を握り、彼女は、雪道に踏み出した。
「来年の年明けこそは、貴方の馬車に乗せて下さいますね?」
「よろしいですよ」
「きっとね?」
「はい、きっとです」

 立ち止まった。

 マリアは、相手の顔を見上げた。首を後ろにそらさなければ見えないほど、背が高い。
 俯いて自分を見ている顔が、陰になっている。

「あのね、ライヒシュタット公」
ぼんやりと優しい輪郭に向かって、言った。
「私は貴方の、その、お髭が嫌いです。ちっとも似合っていないわ。次にお会いする時までに、剃って下さいます?」

「や、これは困ったなあ」

 始めて、その声に、感情が滲んだ。
 上辺の飾りが取れ、素に戻ったようだ。
 優しく甘い声より好きだと、マリアは思った。

「将校は、髭がないと、兵士たちから、舐められるのですよ。特に僕は、若いから」
「それなら、許してあげます」
マリアは言った。






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登場人物紹介

カール大公

1771.9.5 - 1847.4.30

(カール大公の恋)


ライヒシュタット公の母方の大叔父。1796年の革命戦争では、ジュールダン麾下サンブル=エ=ムーズ軍、モロー麾下ライン・モーゼル軍と戦い、両軍を分断させ、勝利を収める。1809年のナポレオン軍との戦い(対オーストリア戦)の後は軍務を退き、軍事論の著述に専念する。

レオポルディーネ

 1797.1.22 ‐ 1826.12.11

(もう一人の売られた花嫁)


ライヒシュタット公の母方の叔母。皇帝フランツの娘。ポルトガル王太子ペドロと結婚する。ナポレオンの侵攻を受け、ポルトガル王室は当時、植民地のブラジルへ避難していた。ペドロとの結婚の為、レオポルディーネも、ブラジルへ渡る。

ヨーハン大公

1782.1.20 - 1859.5.11

(アルプスに咲いた花)


ライヒシュタット公の大叔父。皇帝フランツ、カール大公の弟。兄のカールに憧れ、軍人となる。

アダム・ナイペルク

1775.4.8 - 1829.2.22

(片目の将軍)


オーストリアの軍人。フランス革命戦争で赴いたオランダで片目を失う怪我を負うも、捕虜交換の形で帰国した。

ドン・カルロス

1787.初演

(「ドン・カルロス」異聞)


シラー(シルレル)の『ドン・カルロス』は、ライヒシュタット公の愛読書だった。

チャットノベルもございます

「ドン・カルロス」異聞

マリア・テレサ

 1816.7.31 - 1867.8.8

(叶えられなかった約束)


カール大公の長女。

マリー・ルイーゼ

1791.12.12 - 1847.12.17

(2つの貴賤婚)


ライヒシュタット公の母。ナポレオンの二人目の妻、かつてのフランス皇妃。ウィーン会議でパルマに領土を貰い、5歳になる直前の息子を置いて旅立っていった。以後、全部で8回しか帰ってこなかった(最後の1回は、彼が公的に死の宣告をされた後)。

エドゥアルド・グルク

1801.11.17– 1841.3.31

(画家からの手紙)


ウィーンの宮廷画家。メッテルニヒに見いだされ、採用された。グルクの死から約170年後、彼が描いた絵が、モル男爵の屋敷で発見された。モル男爵は、かつてライヒシュタット公の補佐官で、その死の床に最後まで付き添った。

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