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文字数 2,357文字

モル男爵。あなたはかつて、ライヒシュタット公の付き人でした。彼が将校として独立するに当り、新たに付けられた3人の軍人のうちの1人です。

ライヒシュタット公は、当時、20歳になったばかりでした。軍務への期待に胸を膨らませる、魅力的な貴公子でした。

私も、遠くから彼を見かけたことがあります。金色の巻き毛、白い肌、青く輝く瞳……。背は高く、とてもスマートでした。
彼は、ハプスブルク家で一番、才能があると謳われていたプリンスでした。

でも、なぜでしょうね。私には、彼が、とても寂しげに見えました。こんなに若く美しく、能力に恵まれ、また、皇帝の孫という恵まれた地位にいるというのに……。


あなたを付き人に任命したのは、皇帝と、そしてメッテルニヒ(宰相)だったと聞きます。当時の皇帝は、ライヒシュタット公の祖父でもあられました。
あなたは、軍での彼の活躍をサポートし、家庭においては、その相談役となる筈でした。
けれど、あなたは、元々は、地図作成などの測量武官でした。ライヒシュタット公は、実戦で戦いたがっていたと聞きます。身の回りに配するのなら、より、実践的な武官を任命すべきではなかったでしょうか。

当時、彼には、自分の手元に置いておきたい人がいました。
親友の、プロケシュ少佐です。長らく中東外交で活躍し、実戦経験も豊富な彼を、ライヒシュタット公は副官にしたがっていたそうです。




それなのに、宰相はなぜ、あなたに白羽の矢を立てたのでしょうか。
測量武官のあなたを。


あなたを含む3人の軍人が、彼の付き人に任命されたのは、1830年。フランスに7月革命が起きた年でした。フランスの、いえ、ヨーロッパ中の視線が、ナポレオンの息子に集まっていた時期です。もう、11年も前のことになりますか。




その年は、奇しくも、私が、フェルディナント皇太子の、記録画家に取り立てられた年でした。私がフェルディナント大公……一人では何もできず、メッテルニヒ宰相の傀儡であるに過ぎない、オーストリアの皇太子(クラウン・プリンス)……について、ハンガリーに行った年です。

私は、木偶のフェルディナント皇太子と一緒でしたが、あなたは、麗しいライヒシュタット公の傍らで、胸をときめかせていたわけです。あなたは頬を赤らめ、遠くから彼を見つめていたのではありませんか? 

結果として、彼は実戦に赴くことはありませんでした。赴任地も、希望していた地方の駐屯地ではなく、このウィーン、彼はまたしても、ウィーンから外へ出してもらえなかったのです。彼の任務は、パレードや式典での軍の統率、気の毒に彼は、お飾り司令官に過ぎなかったのです。

ウィーンに捕らえられ、何一つ、自由にならなかった、ナポレオンの息子。
幼い頃から憧れ、強く望んだ軍務さえも、ウィーン駐在を命じられ、完全な独立はならなかった。
皇帝の孫でありながら、黄金の檻に閉じ込められた、高貴な囚人……。


あなた方の任務は、彼の監視でした。彼に、ボナパルニストや共和派のスパイが接触しないように。怪しげな思想を植え付けられることがないように。

祖父であられた皇帝は、異性関係にも気をつけるように命じたそうでうね。彼が外出する時には、あなた方3人の軍人のうちの一人が、必ず、同伴(アテンド)していたとか。彼に同伴を断られた場合は、尾行を。

異性関係。確かに、注意が必要だったでしょう。
7月革命後、新しく樹立された政府(ルイ・フィリップ王朝)から派遣されたフランスのメゾン大使は、彼の女性関係について、目を光らせていました。彼が病で衰弱していくさまを、放蕩による消耗だと、本国に報告していたくらいですから。

現に彼には、さまざまな女性との噂がありました。畏れ多くも叔父君、フランツ・カール大公の令夫人、ゾフィー大公妃。女優。ハンガリーの伯爵令嬢。踊り子。ジプシーから買われて、某伯爵夫人となった方との不倫も、取り沙汰されていましたね。そうそう、カール大公のご息女も、密かに思いを寄せておられたとか。

でも、モル男爵。一介の軍人(失礼!)であるあなた方に、皇族の恋路を邪魔することなど、可能だったのでしょうか。皇帝は、そして宰相は、具体的には、どういう指示をされたのでしょう。
特に、あなたに。

モル男爵。あなたは、彼が女性のもとへ通うのを、どんな気持ちで尾行していたのですか?

気の毒に、彼の恋は、どれも、本当の恋には発展しなかった。もしくは、長くは続かなかった。何も実を結ばないまま、彼は結核を発病し、亡くなってしまいました。


若きプリンスの死は、宰相の謀略によるものだったと、当時ウィーンの街中では、公然と囁かれていました。なにしろ彼は、仇敵ナポレオンの息子、宰相の「喉に刺さった棘」でしたから。

そうした悪意ある噂に抗すべく、メッテルニヒ(宰相)は、モントベール男爵に本を書かせました。モントベールは、7月革命で、フランスから亡命してきた、ブルボン復古王朝(シャルル10世)時代の大臣です。わが国の宰相(メッテルニヒ)と、特別に、馬が合っていたのでしょうか。

それにしても、宰相(メッテルニヒ)はなぜ、旧王党(ブルボン)派の人間に、ナポレオンの息子の伝記を書かせたのでしょう。王朝が倒れるその日まで、ナポレオンを憎んでいたブルボン派の大臣に。





あなた方付き人の話は、ハルトマン将軍から宰相(メッテルニヒ)を通して、モントベールに伝えられたようですね。モントベールの本を、私も買って、読んでみました。

本には、ライヒシュタット公の看護は、あなたにとって、気の進まないものだったと書かれていました。喀血を、ハンカチーフで拭うのは、耐え難かった、と。
それはそうでしょう。それはそうでしょうけれども……。

それならなぜ、彼の看護記録を、大切にとっておいたのですか?

ヴィラ・ラガリーナの図書室で、私は、見つけてしまいました。刻一刻と悪化していくプリンスの、看護記録を。大切に大切に、保管されていた、あなたの手記を。








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登場人物紹介

カール大公

1771.9.5 - 1847.4.30

(カール大公の恋)


ライヒシュタット公の母方の大叔父。1796年の革命戦争では、ジュールダン麾下サンブル=エ=ムーズ軍、モロー麾下ライン・モーゼル軍と戦い、両軍を分断させ、勝利を収める。1809年のナポレオン軍との戦い(対オーストリア戦)の後は軍務を退き、軍事論の著述に専念する。

レオポルディーネ

 1797.1.22 ‐ 1826.12.11

(もう一人の売られた花嫁)


ライヒシュタット公の母方の叔母。皇帝フランツの娘。ポルトガル王太子ペドロと結婚する。ナポレオンの侵攻を受け、ポルトガル王室は当時、植民地のブラジルへ避難していた。ペドロとの結婚の為、レオポルディーネも、ブラジルへ渡る。

ヨーハン大公

1782.1.20 - 1859.5.11

(アルプスに咲いた花)


ライヒシュタット公の大叔父。皇帝フランツ、カール大公の弟。兄のカールに憧れ、軍人となる。

アダム・ナイペルク

1775.4.8 - 1829.2.22

(片目の将軍)


オーストリアの軍人。フランス革命戦争で赴いたオランダで片目を失う怪我を負うも、捕虜交換の形で帰国した。

ドン・カルロス

1787.初演

(「ドン・カルロス」異聞)


シラー(シルレル)の『ドン・カルロス』は、ライヒシュタット公の愛読書だった。

チャットノベルもございます

「ドン・カルロス」異聞

マリア・テレサ

 1816.7.31 - 1867.8.8

(叶えられなかった約束)


カール大公の長女。

マリー・ルイーゼ

1791.12.12 - 1847.12.17

(2つの貴賤婚)


ライヒシュタット公の母。ナポレオンの二人目の妻、かつてのフランス皇妃。ウィーン会議でパルマに領土を貰い、5歳になる直前の息子を置いて旅立っていった。以後、全部で8回しか帰ってこなかった(最後の1回は、彼が公的に死の宣告をされた後)。

エドゥアルド・グルク

1801.11.17– 1841.3.31

(画家からの手紙)


ウィーンの宮廷画家。メッテルニヒに見いだされ、採用された。グルクの死から約170年後、彼が描いた絵が、モル男爵の屋敷で発見された。モル男爵は、かつてライヒシュタット公の補佐官で、その死の床に最後まで付き添った。

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