5 然るべき時の流れと必然

文字数 2,654文字

 「兄上」
カールは、膝を乗り出した。
「フランツの最初の赴任地として、ブルノ(現在のチェコ、モラヴィア辺り)は、いかがでしょう?」
「ブルノ?」
皇帝が首を傾げた。
「ええ。ナッサウ公の連隊が駐屯しております。そこの歩兵隊を、フランツに任せてみたらいかがでしょう」
「ナッサウ公……ああ!」
皇帝の顔に、理解の色が浮かんだ。

 カールは頷いた。
「そうです。ナッサウ公……亡くなったわが妻(ヘンリエッテ)の兄です」
「……なるほど」




「彼を通して、我々は、フランツの様子を知ることができます。義理の兄の連隊とあらば、私も、ちょくちょく、フランツのところへ行くことができるでしょう」
「フランツは、二人の上官を得るわけだな。ナッサウ公と、カール。お前と」
「はい。フランツには、迷惑な話でしょうけど」
くすりと、カールは笑った。

「……ありがとう、カール」
ぼそりと、皇帝は言った。
 カールは、目を(しばたた)いた。
「礼なんて。兄上。私はそんなつもりは……」
「いや。あの子の子ども時代は、オーストリアとフランス、両国の犠牲になった。ナポレオンとオーストリア皇女(マリー・ルイーゼ)の結婚は、あってはならないことだったのだ。私は、(マリー・ルイーゼ)には、償いをすることができた。だが、フランツには、それが、できかねていた」

「兄上、これだけは」
カールが言った。強い口調だった。
「あの子は、生まれるべくして、生まれた子です」

 皇帝は、大きく頷いた。
「そうだ。だから、これから、フランツには、自分の人生を取り戻してほしいのだ。カール。お前が、あの子の側についていてくれて、儂は、嬉しい」

「私だけではありません。ヨーハンだって、皇帝の次男の妻(ゾフィー)だって、ま、ちょっと頼りないけど、皇帝の次男(フランツ・カール)だって……皇帝の長男(フェルディナンド)も、フランツのことは、大好きでしょう?」

「フランツのことなら、儂の妻(皇妃)も、自分の息子のように気にかけている。いや、偏愛と言っていいくらいだ。お前の娘(アンナ)もそうだろう?」
「アンナはダメです」
きっぱりと、カールは答えた。

 皇帝は笑った。
「儂はな、カール。いずれあの子(フランツ)は、フランスから迎えられると、考えている」

 カールは息を飲んだ。

 皇帝は頷いた。
「7月革命により、正統なるブルボン家は、その座を追われた。王は、国家などではなかった。また、王位も、神から授けられたものではなかった」

「兄上……」
「それが、どういう形かは、わからない。神ならぬ身に、先のことは、見通せない。未来は、若い者たちが、動かしていくものだ。フランツは、己の道を行くだろう。あの子には、それだけの力がある。そして、然るべき時の流れと必然が、彼を、フランスの王座へと導くと、儂は信じている」

「フランツを、解放するのですね?」
「解放……あの子も、そんな言葉を使っていたな。だが、あの子は、このウィーンに監禁されていたわけではない。逆だ。あの子は、メッテルニヒの政策の元、厳重に保護されていたのだ」


 カールは、危惧を覚えた。
 彼のところへは、諸外国のボナパルニストから、しきりと、ナポレオンの息子を解放せよとの、手紙が届いている。その中には、ナポレオンの兄弟からの手紙も混じっていた。

 その全てを、カールは兄に見せ、宰相メッテルニヒに渡していた。

 しかし、フランツには何ひとつ、知らされることはなかった。
 伯父達の手紙さえ、彼には届けられていない。


「……メッテルニヒは、フランツの地方勤務について、どう思っているのですか?」
 カールは尋ねた。
 愚かな質問だった。

「皇帝の儂に逆らえる者などいない。まして、フランツは、儂の孫だ」
 尊大に、皇帝は言い放った。

 語調を和らげ、続けた。
「大丈夫だ。いつフランスから迎えられても恥ずかしくないよう、金の用意を始めたところだ」

「兄上……」


 メッテルニヒへの疑義を呈するべきかどうか、カールは迷った。
 カールは、長いこと、宰相(メッテルニヒ)の監視下にあった。
 同じ扱いを、今、皇帝の孫(フランツ)も受けている。いや、もっと悪い。鷲の子(ナポレオンの息子)は、檻に閉じ込められているのだ。皇帝の一声で、この檻は、簡単に開くものだろうか。
(※ナポレオンの紋章に取り入れられていることから、鷲は、ナポレオンを表す)




 カールの沈黙を、皇帝は、自分へ向けられた、無言の非難と受け取ったらしい。僅かに不興げに、眉を顰めた。

「だって儂は、亡くなった叔母上(マリー・アントワネット)から託された財産を、無事に守り通したろう? アングレーム公との結婚に際し、きちんと、フランスの内親王(マリー・テレーズ)に渡した。それどころか、利子で、ミタウ(※)までの旅費まで出してやったのだ」
(※注 当時、マリー・テレーズの叔父、ルイ18世は、ロシアのミタウに亡命していた。ウィーンを出たマリア・テレーズは、アングレーム公と結婚する前に、まずは、この叔父の元へ身を寄せた)

 ちょっと考えて、付け加えた。
「マリー・テレーズの旅費は、当然、ロシア皇帝が支払うべき筋のものだった。儂は今でも、そう考えている」





 マリー・テレーズ。
 突然出てきたその名に、カールの心が揺れた。

 だが、皇帝は気がつかない。無心に続けた。
「オーストリアとフランスの狭間で苦しむのは、マリー・テレーズもフランツも同じだ。7月革命でブルボン王朝は倒され、マリー・テレーズは再びフランスを追われてしまった。だが、フランツの未来は、これからなのだよ」

「フランツに流れるハプスブルクの血を通じて、フランスを手に入れるおつもりなんですね?」

 カールの声には、苦い響きがあった。

 ……彼女は、フランスを選んだ。フランス……アングレーム公を。
 ……自分は、マリー・テレーズを妻に迎えることができなかった……。

 「まさか。そこまでは考えていない」
 皇帝は笑った。
 すぐに真面目な顔になった。
「ただ、フランスは大国だ。最近のプロイセンの台頭も、気にかかる。北にはロシアも控えている。フランスが、オーストリアの味方についてくれたら、と思っているよ。フランスに、儂の孫(フランツ)がいてくれたら心強い」

 ……そううまくいくだろうか。
 曖昧に、カールは頷いた。







 ……秋になったら、お前をプラハかブルノへやろう。希望通り、そこで、軍人としての第一歩を踏み出すのだ。

 皇帝は、孫にこう、約束していた。
 だが、翌年春にようやく決まった彼の赴任地は、アルザー通りだった。フランツは、またしても、ウィーンから出ることが許されなかった。




 ……新年の休暇に、ライヒシュタット公の馬車に乗せてもらう。

 幼いマリアの願いも、また、叶えられることはなかった。
 永久に。







fin






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登場人物紹介

カール大公

1771.9.5 - 1847.4.30

(カール大公の恋)


ライヒシュタット公の母方の大叔父。1796年の革命戦争では、ジュールダン麾下サンブル=エ=ムーズ軍、モロー麾下ライン・モーゼル軍と戦い、両軍を分断させ、勝利を収める。1809年のナポレオン軍との戦い(対オーストリア戦)の後は軍務を退き、軍事論の著述に専念する。

レオポルディーネ

 1797.1.22 ‐ 1826.12.11

(もう一人の売られた花嫁)


ライヒシュタット公の母方の叔母。皇帝フランツの娘。ポルトガル王太子ペドロと結婚する。ナポレオンの侵攻を受け、ポルトガル王室は当時、植民地のブラジルへ避難していた。ペドロとの結婚の為、レオポルディーネも、ブラジルへ渡る。

ヨーハン大公

1782.1.20 - 1859.5.11

(アルプスに咲いた花)


ライヒシュタット公の大叔父。皇帝フランツ、カール大公の弟。兄のカールに憧れ、軍人となる。

アダム・ナイペルク

1775.4.8 - 1829.2.22

(片目の将軍)


オーストリアの軍人。フランス革命戦争で赴いたオランダで片目を失う怪我を負うも、捕虜交換の形で帰国した。

ドン・カルロス

1787.初演

(「ドン・カルロス」異聞)


シラー(シルレル)の『ドン・カルロス』は、ライヒシュタット公の愛読書だった。

チャットノベルもございます

「ドン・カルロス」異聞

マリア・テレサ

 1816.7.31 - 1867.8.8

(叶えられなかった約束)


カール大公の長女。

マリー・ルイーゼ

1791.12.12 - 1847.12.17

(2つの貴賤婚)


ライヒシュタット公の母。ナポレオンの二人目の妻、かつてのフランス皇妃。ウィーン会議でパルマに領土を貰い、5歳になる直前の息子を置いて旅立っていった。以後、全部で8回しか帰ってこなかった(最後の1回は、彼が公的に死の宣告をされた後)。

エドゥアルド・グルク

1801.11.17– 1841.3.31

(画家からの手紙)


ウィーンの宮廷画家。メッテルニヒに見いだされ、採用された。グルクの死から約170年後、彼が描いた絵が、モル男爵の屋敷で発見された。モル男爵は、かつてライヒシュタット公の補佐官で、その死の床に最後まで付き添った。

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