4 売られた花嫁の死

文字数 3,025文字

 しばらく途絶えていたパルマの姉、マリー・ルイーゼから、手紙が届いた。
 一人の部屋で手紙を読み、レオポルディーネはうめき声を上げた。手紙を持つ手が震える。
 ……お姉さま。
 ……これは、違うのではないですか?
 ……これではフランツが、あまりにかわいそうです。

 手紙には、姉が、

、妊娠したと書かれていた。

 でも、ご安心下さい。お腹の子には、ちゃんとした父がいます。
 ブラジルがポルトガルから独立し、あなたも大変な時期だとわかっていたので、連絡しませんでしたが、この子の父親とは、去年の8月に、結婚しました。


 二重の衝撃が、レオポルディーネを襲った。
 去年。それは、セント・ヘレナで、ナポレオンが亡くなった年だ。

 ナポレオンは5月に亡くなったから、わずか4ヶ月後に、(マリー・ルイーゼ)は、再婚したことになる。しかも、同じ8月の15日に流産をした、と、姉は、書き添えていた。
 ちなみに、8月15日は、ナポレオンの誕生日でもある。彼は、3ヶ月前に死んでしまっているのだけれども。

 すると、今回の妊娠は、レオポルディーネの記憶が正しければ、姉の、5回めの妊娠になる。
 だが、レオポルディーネは知っている。
 最初の女の子の誕生は、1817年。マリー・ルイーゼが、パルマへ下った、翌年である。レオポルディーネが、ブラジルへ嫁いできた年だ。

 ……わたしの宝物。
 レオポルディーネがそう呼んでいたフランツは、母がいつウィーンへを里帰りするか、それだけを、待ち焦がれていた。それなのに……。

 次の男の子は、1819年に生まれた。
 いずれも、ナポレオンは、まだ、セントヘレナ島で健在だった。




 次の一文を読んで、レオポルディーネは、驚愕した。


相手は、あなたもご存知の、ナイペルク将軍です……


 ナイペルク将軍。
 マリー・ルイーゼについて、パルマに下っていった、片目の将軍だ。彼の右目は、オランダでの戦闘で、密書を届ける途中、フランス兵に、サーベルで切りつけられたという。死んだと思われたのが、なんとか生き残り、人質交換の形で、オーストリアに帰国している。




 勇敢な将軍だと言うので、父の皇帝が、姉の護衛につけた。
 当時、ナポレオンはイタリア半島にほど近いエルバ島にいた。姉は、過激なボナパルニストにさらわれる危険があった。


 いずれにしろ、姉と、片目の将軍、ナイペルクとの結婚は、秘密の結婚だった。姉は、未だに、父の皇帝にもさえ、打ち明けていないという。
 貴賤婚だったから。
 皇族は、所領を持たない者との結婚を禁じられている。たとえ、相手が貴族であろうと、領地を持たない者との婚姻は許されない。

 皇族は、国のために、結婚をする。ハプスブルクの血脈で、版図を拡げる為に。
 だから、レオポルディーネは、メッテルニヒの言うことを聞き入れ、ブラジルに来た。
 姉も、ナポレオンに嫁いだ。

 その(ナポレオン)が死んだしたからといって、貴賤婚が許されるわけではない。


 レオポルディーネには、ウィーンにいるフランツが、かわいそうでならない。
 彼は、何も知らない。
 母親がまさか、他の男と、再婚しようとは。既に二人も、子をなしていようとは。しかも、父ナポレオンの生存中に。
 そんなことは少しも知らず、フランツは、ひたすら、母がウィーンへ里帰りするのを待ち続けていた。
 今でも、待ち続けているはずだ。



 ナイペルク将軍とのつきあいは、長いものとなりました。けじめをつける必要を感じました。彼との関係は、1814年からです


 1814年!
 レオポルディーネは、再び、衝撃に打たれた。
 パリが陥落し、姉が、幼いフランツ()を連れて、ウィーンに帰ってきた年ではないか!

 あの頃、ナポレオンは、エルバ島から、しきりと、自分の元に来るよう、あらゆる伝手をたどって、手紙をよこしていた。

 レオポルディーネは、10年前のことを思い出した。
 ……なんて無思慮で自己中心的な手紙。
 ナポレオンからの手紙を読んで、マリー・ルイーゼ()はつぶやいた。
 その声に、わずかに恐怖の響きが含まれていたのに気づき、レオポルディーネは、怪訝に思った。
 ……あの頃すでに、姉とナイペルク将軍は、そういう関係にあったのだ。
 今初めて、レオポルディーネは、合点がいった。
 ……長い長い、裏切り。
 ナポレオンの死は、姉を、どんなに安堵させたことだろう。
 ……ナポレオンは、そこまであなたを裏切りましたか?


 レオポルディーネは両手で顔を覆った。
 ……どんなにひどいことをされようと、自分は、夫を、裏切れない。
 ハプスブルクの姉妹の中で一番聡明な、そして真面目な彼女は、思った。

 新婚の頃の、夫の、あの、まっすぐな優しさは、本物だった。
 彼女に向けられた愛情は、真実だった。
 たとえ一時でも、それある限り、自分は決して夫を裏切らないだろう。

 レオポルディーネは、姉からの手紙を畳んだ。
 手紙には、焼いてくれるよう、但し書きがしてあった。
 そのまま、蝋燭の火をつけた。







 1826年12月11日。
 オーストリア宰相(当時は外相)メッテルニヒが売った花嫁の、妹の方が亡くなった。マリー・ルイーゼの妹、レオポルディーネである。

 レオポルディーネの死は、妊娠中の彼女の腹を、夫のペドロが、強く蹴ったせいだと言われている。
 レオポルディーネは死産し、10日後に亡くなった。
 皇妃(レオポルディーネ)は夫に殺されたのだと、ブラジルの誰もが知っていた。


 皮肉なことに、レオポルディーネが亡くなって初めて、ペドロは、妻の誠実さと、自分に向けられていた無償の愛に気がついた。
 国民の、彼女への思慕と弔意も、それに拍車をかけた。

 今更ながらにペドロは、レオポルディーネの死を深く悲しんだ。

 彼は、愛人と別れ、レオポルディーネの父、オーストリア皇帝に悔恨の手紙を書いた。
 オーストリア皇帝は、この婿(ペドロ)を、生涯、許さなかったという。







 その頃、ポルトガルでは、ペドロの弟、ミゲル王子が元帥となっていた。しかし、彼は、絶対王政の支持者だったために反乱が起き、ミゲルは、オーストリアに亡命した。そこで彼は、メッテルニヒに出会い、その、友人、兼、客人となった。

 レオポルディーネが亡くなる半年前、ペドロの父王、ジョアン6世が亡くなった。ペドロは、ブラジルにいたまま、ポルトガル王にも即位した。

 しかし海を挟んでの統治には、無理があった。
 2ヶ月半で彼は退位し、ポルトガル王位を、7歳のマリアに譲位した。
 マリアは、レオポルディーネとの間に生まれた、長女だ。


ポルトガル王マリア2世;10歳


 マリアの即位は、彼女と、ペドロの弟ミゲル(叔父)との結婚が条件だった。しかし、オーストリアへの亡命中に、メッテルニヒの薫陶を受けたミゲルは、マリア()を無視して、勝手に、ポルトガル王を名乗り始めた。そして、絶対君主として、極端な保守反動政権を敷いた。





 1831年、ペドロは、ブラジル皇帝の座を、5歳の息子、ペドロ2世に譲った。マリアの弟、同じく、レオポルディーネの産んだ子である。


12




 翌年、ペドロは、ポルトガルに上陸、弟ミゲルとの間に、壮絶な戦いが始まった。
 娘、マリアの利権を守るために。


 ペドロの後半生は、戦いの連続だった。


 1834年、ミゲルは退位を強制されて、ここにようやく、マリアが、復位を果たした。
 同じ年、ペドロは、病死した。

 レオポルディーネ亡き後、彼は、妻の残していった遺児たちに、誠実だった。











fin
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登場人物紹介

カール大公

1771.9.5 - 1847.4.30

(カール大公の恋)


ライヒシュタット公の母方の大叔父。1796年の革命戦争では、ジュールダン麾下サンブル=エ=ムーズ軍、モロー麾下ライン・モーゼル軍と戦い、両軍を分断させ、勝利を収める。1809年のナポレオン軍との戦い(対オーストリア戦)の後は軍務を退き、軍事論の著述に専念する。

レオポルディーネ

 1797.1.22 ‐ 1826.12.11

(もう一人の売られた花嫁)


ライヒシュタット公の母方の叔母。皇帝フランツの娘。ポルトガル王太子ペドロと結婚する。ナポレオンの侵攻を受け、ポルトガル王室は当時、植民地のブラジルへ避難していた。ペドロとの結婚の為、レオポルディーネも、ブラジルへ渡る。

ヨーハン大公

1782.1.20 - 1859.5.11

(アルプスに咲いた花)


ライヒシュタット公の大叔父。皇帝フランツ、カール大公の弟。兄のカールに憧れ、軍人となる。

アダム・ナイペルク

1775.4.8 - 1829.2.22

(片目の将軍)


オーストリアの軍人。フランス革命戦争で赴いたオランダで片目を失う怪我を負うも、捕虜交換の形で帰国した。

ドン・カルロス

1787.初演

(「ドン・カルロス」異聞)


シラー(シルレル)の『ドン・カルロス』は、ライヒシュタット公の愛読書だった。

チャットノベルもございます

「ドン・カルロス」異聞

マリア・テレサ

 1816.7.31 - 1867.8.8

(叶えられなかった約束)


カール大公の長女。

マリー・ルイーゼ

1791.12.12 - 1847.12.17

(2つの貴賤婚)


ライヒシュタット公の母。ナポレオンの二人目の妻、かつてのフランス皇妃。ウィーン会議でパルマに領土を貰い、5歳になる直前の息子を置いて旅立っていった。以後、全部で8回しか帰ってこなかった(最後の1回は、彼が公的に死の宣告をされた後)。

エドゥアルド・グルク

1801.11.17– 1841.3.31

(画家からの手紙)


ウィーンの宮廷画家。メッテルニヒに見いだされ、採用された。グルクの死から約170年後、彼が描いた絵が、モル男爵の屋敷で発見された。モル男爵は、かつてライヒシュタット公の補佐官で、その死の床に最後まで付き添った。

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