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文字数 2,579文字



 フェリーペ2世は、息子のカルロスを疑っていた。
 父王は、息子の熱い血と冷ややかな眼差しを恐れた。

 王はまた、自分の白くなった髪に劣等感を抱いていた。若い王妃にふさわしいのは、実は息子の方だったと思うと、たまらない気持ちになった。


 「父上。農民共の一揆は、日毎に激しいものとなっております。どうかこの私を、フランデルンの一揆鎮圧に派遣して下さいませ」
 久しぶりに会った息子が願い出た。

 その若々しく生い茂った髪、シミひとつない白い肌を見ていると、王の心にどす黒い感情が湧き上がってきた。

 「何を、馬鹿な」
王は一蹴した。
「なぜこの儂が、イスパニアの王たるこの私が、己の精鋭部隊を、お前の支配下に渡さねばならぬのだ。儂は、刃を刺客の手に委ねるようなことはせぬ」

「情けないことを……私にはそのような気持ちは、みじんもございませぬ」
息子は声を詰まらせた。
「フランデルンの民は、私を愛してくれております。必ずや、うまく、暴動を沈めてご覧にいれます。なにとぞ、私を、フランデルンへ……どうぞ、お情けを」
「ならぬ」

「父上。過ぐる年月、私は、ここ、イスパニアで、イスパニアの王子と生まれながら、まるでよそ者のように暮らしてきました。父上の国で、いつかは自分が治める筈のこの国で、まるで、囚われ人のように暮らして参りました……」
「お前の血は熱すぎる。その血の暴走を、儂は恐れている」

「いいえ! いたずらに23年の月日を重ね、今、私は、血が沸き立っております。お願いでございます。この身をフランデルンへ! 無益に過ごした今までの月日を贖わせて下さいませ。天から授かった私の才覚を、なにとぞ目覚めさせて下さいませ。機会を! 名誉ある働きを、どうぞ、この身に!」

「ならぬといったら、ならぬ」
王は立ち上がった。
「王の怒りに触れまいと思ったら、その言葉は、二度と、繰り返すな!」
 ……。











 「なんだ、お前が、ため息なんて」
スパイのため息を、プリンスが聞き咎めた。

 何かを振り切るように、スパイは首を横に振った。
「いいえ。それで、どうなったんです? ロドリーゴは? 彼はフランデル独立派なんでしょ? フランデルン一揆鎮圧軍の司令官を、カルロスにすることが希望だったはずです。彼以外の司令官では、ことを穏便に済ませるのは難しい」

「うん、そこなんだ」
我が意を得たりとばかり、プリンスは頷いた。目が輝き、表情が生き生きとしている。
「フランデルン独立は、王に対する謀叛だ。王も警戒していて、フランデルンとは連絡を取ることさえできない。慎重に行動する必要がある」
「わかった! それで二人は、うらさびれた僧院で

するんですね!」

「……なぜだろう。お前が言うと、何か、いやな感じがする。なにかこう、罠にはめられているような?」
「気の所為ですよ」

「カルロスが軍の指揮を取れなかったのは、ロドリーゴにとって、大きな痛手だった。そしてもうひとつ、彼にとって、思いもかけぬことが持ち上がった」
「なんですか?」

「臣下の忠誠に疑問を抱いたフェリペ2世は、心から信じられる臣下が欲しいと希ったんだ。彼が白羽の矢を立てたのは、ロドリーゴ・ボーサ侯だった。王はボーサ侯に、王子の身の回りを探るよう、命じたんだ」
「うっわ」

「彼は、カルロス王子に内緒で、彼の密偵の役を引き受けた」
「なんでまた……。二人は、親友同士なんでしょ?」

「親友だからこそだよ。ロドリーゴは、自分が王子を裏切るなんて、考えたこともなかった。ただ、王の命令は絶対だからね。その上、ロドリーゴの方にも、うまく立ち回れば、王に、フランデルン独立を認めさせることができるかもしれないという、計算が働いた。王を説得して、カルロスをフランデルンに派遣させることができると、考えたのだ」
「その辺の計略を、ロドリーゴは、カルロスに話すべきでした」

「でも、彼は親友に、どんな小さな心配事も与えたくなかったんだ。それは、気持ちよく眠っている者を叩き起こして、頭上に広がる黒雲を指差すような行為だからね。ロドリーゴはただ、カルロスが目を覚ました時に、うららかな青空を見せてあげたかっただけなんだ。それなのに……」

「いや、違いますね」
きっぱりとスパイは言ってのけた。
「それは、ロドリーゴの嫉妬だと思います。カルロスが、王妃に恋なんか、するからです」
 ……。











 ある臣下が、カルロスに、ロドリーゴが王の間諜になったと、告げた。彼は古参の臣下で、その子どもたちもカルロスに仕えている。信頼のおける人物だった。

 「なんで、そんな意地悪を言う」
しかし、カルロスは、この忠臣の言葉を信じなかった。
「どうしてお前は、そうまでして、僕とボーサ侯の仲を裂こうというのだ?」

 臣下は顔色を変えた。

「殿下。あまりにひどいおっしゃりようでございます」
「いや、すまない。お前は忠実な廷臣なのに、ひどいことを言った」
「宮廷は今、ボーサ侯のお噂でもちきりです。彼は、王の寵愛を一身に受け、ついに宰相となりました。今や、その権力は絶大だ、と」

「そうか」
カルロスは寂しそうに俯いた。
「侯爵は、僕を、愛してくれた。自分の魂を大事に思うように、僕のことを、この上もなく、大事に思ってくれていた。……それは、確かなんだ」

「殿下。この私も、確かに見ました。ボーサ侯が、人払いした王の部屋から出てくるのを」
「……そうだよな。彼は、気高い。僕一人より、万人の幸せを望む、度量の深い人間なのだ。彼には、彼の考えがあるのだろう。一方、この僕は、なんて取るに足らない、存在なのだろう。ちっぽけな僕一人を犠牲にして、王に取り入った方が、民の為になろうというもの」

 カルロスは、顔を上げた。
 すがすがしい表情を浮かべていた。

「彼を恨むのは、筋違いというものだ。ボーサ侯は、民の幸せを望んでおられる。彼の胸は、一人の友を受け容れるには、あまりに広すぎるのだ」

「殿下は、それで、よろしいのでございますか?」
すがりつくような目を、忠臣がカルロスに向けた。

「どうしようもあるまい」
打って変わって弱々しい色が、カルロスの瞳に浮かんだ。
「理想を追求してこそ、ロドリーゴ・ボーサなのだ。彼を、この身一つに引き留めることは、本意ではない。まったくもって、本意でない……」
 ……。










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登場人物紹介

カール大公

1771.9.5 - 1847.4.30

(カール大公の恋)


ライヒシュタット公の母方の大叔父。1796年の革命戦争では、ジュールダン麾下サンブル=エ=ムーズ軍、モロー麾下ライン・モーゼル軍と戦い、両軍を分断させ、勝利を収める。1809年のナポレオン軍との戦い(対オーストリア戦)の後は軍務を退き、軍事論の著述に専念する。

レオポルディーネ

 1797.1.22 ‐ 1826.12.11

(もう一人の売られた花嫁)


ライヒシュタット公の母方の叔母。皇帝フランツの娘。ポルトガル王太子ペドロと結婚する。ナポレオンの侵攻を受け、ポルトガル王室は当時、植民地のブラジルへ避難していた。ペドロとの結婚の為、レオポルディーネも、ブラジルへ渡る。

ヨーハン大公

1782.1.20 - 1859.5.11

(アルプスに咲いた花)


ライヒシュタット公の大叔父。皇帝フランツ、カール大公の弟。兄のカールに憧れ、軍人となる。

アダム・ナイペルク

1775.4.8 - 1829.2.22

(片目の将軍)


オーストリアの軍人。フランス革命戦争で赴いたオランダで片目を失う怪我を負うも、捕虜交換の形で帰国した。

ドン・カルロス

1787.初演

(「ドン・カルロス」異聞)


シラー(シルレル)の『ドン・カルロス』は、ライヒシュタット公の愛読書だった。

チャットノベルもございます

「ドン・カルロス」異聞

マリア・テレサ

 1816.7.31 - 1867.8.8

(叶えられなかった約束)


カール大公の長女。

マリー・ルイーゼ

1791.12.12 - 1847.12.17

(2つの貴賤婚)


ライヒシュタット公の母。ナポレオンの二人目の妻、かつてのフランス皇妃。ウィーン会議でパルマに領土を貰い、5歳になる直前の息子を置いて旅立っていった。以後、全部で8回しか帰ってこなかった(最後の1回は、彼が公的に死の宣告をされた後)。

エドゥアルド・グルク

1801.11.17– 1841.3.31

(画家からの手紙)


ウィーンの宮廷画家。メッテルニヒに見いだされ、採用された。グルクの死から約170年後、彼が描いた絵が、モル男爵の屋敷で発見された。モル男爵は、かつてライヒシュタット公の補佐官で、その死の床に最後まで付き添った。

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