4 幸福と有頂天

文字数 3,970文字

 シェーンブルンの庭園を、ヨーハンは、気もそぞろに歩いていた。
 ウィーンでの雑務は、大方、済ませた。あとは、兄の皇帝に挨拶するだけだ。一刻も早く、シュタイアーマルクへ帰りたい。早馬の背の上で、走り出したい気分だった。

 この小道は、両側の木をアーチ状に刈り込み、まるで、緑のトンネルのようになっている。
 夏も、終わろうとしている頃だった。斜めに傾ぐ夕陽が、小道を覆う木立に、複雑な陰影を投じていた。
 一迅の風が駆け抜けた。
 さわさわと、一斉に、葉がざわめく。それは、過ぎゆく命の季節を惜しむように、また、近づく落葉を予感し、打ち震えているようにも聞こえた。


 長く真っ直ぐなトンネルの向こうから、すらりとした人影が歩いてきた。小さな声で、詩句のようなものを口ずさんでいる。

 厚い血潮が、わが身の内を駆け巡る
 無益に過ごしし23年を経て、
 われは、わが裡なる力を感じる
 そは、王座への道
 怒れる債権者が揺り起こす
 若き時間の浪費を思う時
 名誉を挽回せよと命ずる声が、耳元で途切れることがない
 今こそ、天より授かりしその才覚に、利子をつけて返済するのだ
 世界の歴史、過去の名声を受け止めよ
 栄えあるトランペットの響きが、われを奮い立たせる
 時の扉が揺らいで
 名誉の舞台へ向けて、広く開く


 詩が、途絶えた。
 孤独な姿が、凄絶なまでに、凛として佇んでいる。すらりとした美貌の青年は、寂寥と憂愁に、色濃く縁取られていた。


 「フランツ」
ヨーハンは呼びかけた。
「あ。おじさん!」
途端に、声が、子どもの頃の響きに変わった。

 正確には、ヨーハンは、フランツの叔父ではない。フランツは、兄の孫だ。だが、めんどうな呼称を、ヨーハンは嫌った。「おじさん」というのは、フランツが、小さな子どもだった頃からの呼び方だ。

ウィーン(こちら)へ、いらしてたのですね!」
「うん。ホーフブルクにいた」
「教えてくださればよかった。そしたら、すぐに会いに行ったのに!」

「だって、ルイーゼが来ていたんだろ」
からかうように、ヨーハンは姪の名を出した。
「久しぶりにお母さんに会ったんだ。俺のとこへ来たら、ダメだろ」
「母上なら、帰られました」
上目遣いに、ヨーハンを見る。

 ぞくりとするような美しさだった。声に深い感情を滲ませ、フランツは言った。
「ナイペルク将軍のお加減がよくないようで……僕は、心配です」

「ナイペルク……」
 たしかそんな名前の将軍が、マリー・ルイーゼについてパルマへ下ったことを、ヨーハンは思い出した。オランダで片目を失った将軍だ。勇敢さを買われ、マリー・ルイーゼ()の護衛官となった。

 まだ、ウィーンへ帰って来られないで、姪に仕えているのか。
 ウィーンには、彼の家族がいるだろうに。
 顔も定かでない男に、ヨーハンは、同情した。


 「そうだ。大尉に昇進したそうだな。おめでとう」
フランツの顔が、ぱっと輝いた。
「ありがとうございます、ヨーハン大公。チロル連隊所属の大尉に任命されました」
改まって、フランツは答えた。

 不意に、その顔に、暗い影が落ちた。
「でも、いつになったら、軍務に就くことができるのやら」


 ナポレオンの息子が、宮廷から出られないことは、ウィーンの、誰もが知っていた。
 ヨーロッパのあちこちには、未だに、ナポレオンの残党が残っている。ひとたび、フランツが彼らの手に落ちたなら……、彼はたちまちフランスの王に祭り上げられるだろう。

 ……ナポレオンの息子(ライヒシュタット公)は、父親譲りの才能と残虐さで、ヨーロッパを、あっという間に、戦争の渦に叩き込むだろう。
 ……そうなったら、わが畢生のウィーン体制は、瞬く間に崩れ去るに違いない。
 それが、ヨーロッパの御者、メッテルニヒの抱いている恐れだった。
 宰相(メッテルニヒ)は、ナポレオンの息子の、卓越した能力と、人を惹きつける魅力を、正確に見抜いていた。
 

 フランツ自身は、幼い頃から、父親と同じく、軍務を志していた。だが、一向に、昇進も、実務さえも与えられない。
 それどころか、未だに、ウィーンから出してもらえないでいる。オーストリア皇帝の孫でありながら、囚人なのだ。彼は、黄金の檻に捕らえられている……。

 この先、軍人として活躍を許される日が、果たして、訪れるだろうか。
 ナポレオンの息子に、オーストリアの精鋭部隊を託す。そんな危険なことを、あのメッテルニヒが許すとは思えない。


 「おじさんが、僕くらいの年齢の時は、もう、実戦に出ていらしたのでしょう?」
再び上目遣いになって、フランツが尋ねた。ヨーハンは記憶を辿った。
「バイエルンに侵攻したのは、18歳の時だったかな」
「僕より、1歳、上の年齢だ」
フランツがつぶやいた。

 頷き、ヨーハンは続けた。
「アムフィングでは、勝利を収めたのだが、どうやら、初心者の幸運(ビギナーズラック)だったようだ。ホーエンリンデンで、モロー将軍に、滅多打ちにされたよ(*1)」
「……」

 なにか言いたそうな顔を、フランツはした。その複雑な表情を見て、ヨーハンは笑った。

「君のお父さんの、戦友だった男だ。最終的には、敵方に回ったけど。実際、ブルボン旧体制側(王党派)に与したのはまだしも、ロシア軍に加わったと知った時は、俺も、どうかと思ったよ」


 ナポレオンが、ロシア兵の中に、かつての戦友、モローの姿を見つけたのは、1813年、ドレスデンの戦いでのことだ。ロシア軍の先頭にいたモローを遠眼鏡で見つけたナポレオンは、即座に、その辺りに向けて砲撃を集中するよう、命令を下したという。かつてのライン・モーゼル軍司令官モローはこの戦いで被弾し、護送されたプラハで没した。


 ヨーハンは、肩を竦めた。
「オーストリアはロシアの同盟国だったから、俺も、ロシアの悪口は、言えないわけだけどね」
「言ってるじゃないですか」
 フランツの顔が綻んだ。まるで、アネモネの蕾が花開いたようだと、ヨーハンは思った。邪気の全くない、瑞々しい笑顔だ。

 ふっと、柔らかな笑みが、消えた。
「でも、おじさんは、随分若い頃から、実際に、軍務についていらしたんだ」
「そうだよ。いきなり、実戦というわけにはいかないからね」
「それなのに僕は!」
 低く地を這うように、フランツは叫んだ。声が喉に引っかかり、彼は、ひどく咳き込んだ。
「おいおい、大丈夫かい?」

 この冬、彼は体調を崩し、兄の皇帝がひどく心配していたことを、ヨーハンは思い出した。それで、「来なければ銃撃部隊を差し向ける」などと物騒なことまで書いて、姪のルイーゼを、パルマから呼び寄せたのだ。
 こんなに咳き込むとは、まだ、本調子ではないのだろうか。

「焦ることはないさ」
 彼は言った。
「焦ることは、ちっともない」

 できることなら、この子に、アルプスの雄大な景色を見せてやりたい、と、ヨーハンは思った。
 高い山の頂から、澄んだ空を背景に、外界を見下ろせば、大概の悩みは、ふっとんでしまうだろう。
 あの静けさ。
 鋭い、鳥の鳴き声。
 だが、それさえも、メッテルニヒは許そうとしない。

「戦いの為に、戦うのではないのだよ」
ぼそりと、ヨーハンは言った。
「戦いには、犠牲が伴う。敵にも、味方にも。だから、どうしても守らねばならぬものを侵略された時しか、戦ってはならないんだ」

 フランツは肩を怒らせた。
「僕は、この国の為に戦います。おじさんだって、そうだったんでしょう?」
「いいや。今となっては、それも違う気がする……」
「?」

不思議そうな顔を、フランツはした。きょとんとしたその顔を見て、ヨーハンは、思わず吹き出した。

「恋をしろよ、フランツ」
「……? なんですって!?」
「恋をするんだ。かわいい娘を見つけろ。純朴で優しい恋人は、君に、大切なことを教えてくれる。人生で、最も大切なことを!」
「そんな理想を言ったって……。いったいどこで、そんな都合のいい恋人を見つけてくるというんですか!?」
「町なか。それか、山。湖の畔」
「おじさん……」

「皇族や貴族の娘は、ダメだ。お前も知っているだろう? ハプスブルクの結婚では、丈夫な子どもが生まれないことが多い。おそらく、血の近さが、神の逆鱗に触れるのだ。世の富を、血族で囲い込もうなどというのは、さもしい考えだよ」
「……」
「第一、顔も見知らぬ女と添い遂げられる気がしない。娶るなら、民の娘に限る」

「……僕にその自由があるとお思いですか?」
静かな声だった。

 はっと、ヨーハンは息を呑んだ。
 自分の半分ほどの年齢の若者に、たしなめられた気がした。
 美しいアンナと過ごす幸福を。その、有頂天を。

「俺が、アンナに出会ったのは、37歳の時だ」
ぼそりとヨーハンは言った。
「機会は、いつか、巡ってくる。必ず」
我ながら、浮ついた言葉に聞こえた。

 フランツは、無言で頷いた。







 ヨーハンが、兄の皇帝から、正式な結婚を許可されたのは、その年のうちのことだった。
 翌1829年、2月28日。マリアゼル(シュタイアーマルクの北部)の教会で、結婚式が行われた。
 深夜に行われた式には、司祭と新郎新婦の他には、証人となる2名が出席したきりだった。
 それでも、ヨーハンとアンナは、静かな喜びと、深い安心に包まれていた。








 同じ月の22日。
 パルマで、アダム・アルバート・フォン・ナイペルク将軍が亡くなった。
 彼は、驚くべき遺書を、ウィーンの皇帝に宛てて、認めていた。
 ……。







fin







・~・~・~・~・~・~・~・~・~・

*1 
「三帝激突」37話「ホーエンリンデンの戦い」、参照



フランツの口ずさんでいた詩は、英語版『ドン・カルロス』二幕二場のカルロスのセリフを、岩波文庫(佐藤通次 訳)を参考にして訳してみました。なお、原文は散文ですが、敢えて詩の形にしてみました。



ヨーハン大公のお話は、連作短編になります。次の「片目の将軍」及び、3つ先の「2つの貴賤婚」に、ご期待下さい。






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登場人物紹介

カール大公

1771.9.5 - 1847.4.30

(カール大公の恋)


ライヒシュタット公の母方の大叔父。1796年の革命戦争では、ジュールダン麾下サンブル=エ=ムーズ軍、モロー麾下ライン・モーゼル軍と戦い、両軍を分断させ、勝利を収める。1809年のナポレオン軍との戦い(対オーストリア戦)の後は軍務を退き、軍事論の著述に専念する。

レオポルディーネ

 1797.1.22 ‐ 1826.12.11

(もう一人の売られた花嫁)


ライヒシュタット公の母方の叔母。皇帝フランツの娘。ポルトガル王太子ペドロと結婚する。ナポレオンの侵攻を受け、ポルトガル王室は当時、植民地のブラジルへ避難していた。ペドロとの結婚の為、レオポルディーネも、ブラジルへ渡る。

ヨーハン大公

1782.1.20 - 1859.5.11

(アルプスに咲いた花)


ライヒシュタット公の大叔父。皇帝フランツ、カール大公の弟。兄のカールに憧れ、軍人となる。

アダム・ナイペルク

1775.4.8 - 1829.2.22

(片目の将軍)


オーストリアの軍人。フランス革命戦争で赴いたオランダで片目を失う怪我を負うも、捕虜交換の形で帰国した。

ドン・カルロス

1787.初演

(「ドン・カルロス」異聞)


シラー(シルレル)の『ドン・カルロス』は、ライヒシュタット公の愛読書だった。

チャットノベルもございます

「ドン・カルロス」異聞

マリア・テレサ

 1816.7.31 - 1867.8.8

(叶えられなかった約束)


カール大公の長女。

マリー・ルイーゼ

1791.12.12 - 1847.12.17

(2つの貴賤婚)


ライヒシュタット公の母。ナポレオンの二人目の妻、かつてのフランス皇妃。ウィーン会議でパルマに領土を貰い、5歳になる直前の息子を置いて旅立っていった。以後、全部で8回しか帰ってこなかった(最後の1回は、彼が公的に死の宣告をされた後)。

エドゥアルド・グルク

1801.11.17– 1841.3.31

(画家からの手紙)


ウィーンの宮廷画家。メッテルニヒに見いだされ、採用された。グルクの死から約170年後、彼が描いた絵が、モル男爵の屋敷で発見された。モル男爵は、かつてライヒシュタット公の補佐官で、その死の床に最後まで付き添った。

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