5 メッテルニヒの退陣

文字数 2,787文字




 夜が明けた。
 出版の自由や検閲の緩和を求める声は、次第に、現体制への不満へと代わっていった。

「メッテルニヒは退陣しろ!」
「独裁者から皇帝を解放せよ」
「皇帝を我々に返せ!」
 民衆の不満は、決して、皇室に向くことはなかった。
 代わりに、メッテルニヒの罷免を要求する声は、日増しに大きくなっていった。

 宮殿の窓辺に立っていたゾフィー大公妃の口元に、笑みが浮かんだ。
 ……フランツル。見ていて?

 ゾフィーは、決して忘れることはなかった。
 若くして、無念のうちに死んでいった甥を。
 最後まで礼儀正しく、彼女に忠実だった、背の高い、金髪碧眼の青年を。




 彼に死が迫っていた頃、彼女は、あまりに若かった。フランツ・ヨーゼフ(長男)マクシミリアン(次男)の出産が続き、自分のことで、せいいっぱいだった。
 彼女の目には、メッテルニヒは、頼もしい宰相としか映らなかった。

 ……けれど。
 メッテルニヒは、彼が

を受けたその晩、在パリのフランス(アポニー)大使へ、ライヒシュタット公死去の告知を書いていた……。
 その事実を知った時、ゾフィーの中で、何かが壊れた。

 秘跡の儀。ハプスブルク家の一員が、死に瀕した時、必ず受けなければならない、宗教上の儀式だ。言い換えれば、秘跡を授けるということは、お前はもう死ぬのだと、宣告するようなものだ。
 そして、秘跡の儀を受けるよう、フランツルに勧めたのは、ゾフィー自身だった。

 もちろん、秘跡という言葉は使わなかった。間近に迫った自分のお産の無事を祈るついでに、彼の回復を祈る。
 通常の聖餐だと、説明した。
 だが。

 ……「死ぬ準備はできている」
 秘跡を受ける朝、彼は、そうつぶやいたという。また告解の後、司祭に向けて、
 ……「病が重いことは、知っています。しかし、良くなる望みを捨ててはいません」
 と、語ったそうだ。

 彼は、知っていたのだ。
 これが、秘跡の儀であることも。
 自分は間もなく、死ぬということも。

 ハプスブルクの人々が、総出で、彼の意識を、死に向き直らせたのだ。
 彼は、最後まで、生きようとしたのに……。
 そして、ハプスブルク家の先頭に立ち、彼に、聖餐を受けるよう勧めたのは、ゾフィー自身だ。
 ……。


 長いこと、慚愧の思いに、ゾフィーは、身も世もあらぬ思いが続いた。
 最後に見舞ってから(それは、彼女のお産の前日だった)、その死までの16日間、彼の元を訪れることがなかったことも、臓腑が捩れるような、いたたまれなさに拍車を掛けた。

 ……私はあの子に、なんて残酷なことを。
 ……フランツルは、いつだって、私の味方でいてくれたのに。


 彼の死の2ヶ月前、ホーフブルク宮殿から郊外のシェーンブルン宮殿に移った頃、彼の容態は安定したと聞いていた。
 大きな発作はあったが、危機は脱したと、医師団は宣言している。秘跡の前に行われた最後の医療会議では、秋になってからの転地を進言しようと、話し合われてさえいた。

 ……彼に秘跡を受けさせたのは、誰の意思だったのか。

 秘跡を受けた後、容態は、格段に悪化したと、ゾフィーは、付き人から聞かされた。迫りくる死を自覚したからだ。

 ……あの時点で、秘跡を受けさせる必要があったのか。もっと後でも良かったのではないか。
 ……せめて、お母様のマリー・ルイーゼ様が、お帰りになってからでも。
 ……そもそも、メッテルニヒが、もっと早くに、転地を許しさえすれば。

 そうすれば、彼はまだ、自分の隣にいたはずだ。あの頃と同じく、自分の横に座り、はにかんだような微笑みを浮かべて……。

 ゾフィーの心の中で、彼は、いつまでも、あの頃のままだ。
 人混みの中で、エスコートしてくれた、優しいしぐさ。
 大隊を堂々と指揮し、ゾフィーのいるベランダの下を、彼女の方を一顧だにせず、通り過ぎていった子どもっぽさ……。
 おとなになりきった彼を、ゾフィーは、想像できない。彼は、彼女から、永遠に奪われてしまったからだ。

 宰相がナポレオンの息子(ライヒシュタット公)に、ウィーンから出ることを許したのは(フランス以外という条件がついたが)、彼の死の、40日ほど、前のことだ。ちょうど、フランスで起きた6月暴動が、鎮圧された頃。
 ……宰相は、フランスしか見ていない。
 ……かつての敵(ナポレオン)の息子としてしか、フランツルのことを見ていなかったのだ。

 ウィーンから、決して外に出さず、希望の軍務もお飾りのように扱い、それなのに、彼は、身体を酷使し、過酷な訓練に打ち込んで……。

 あれほどの絶望を。
 想像を絶する苦しみを。

 許せない、と思った。
 彼女は、じっとチャンスを窺っていた。



 今年(1848年)2月22日に、パリで、2月革命が起きた。知らせを聞いたその日から、ゾフィーは、周到な準備を重ねた。

 劇場では、メッテルニヒを風刺した喜劇が上演され、好評を博した。これを、検閲する者はいなかった。検閲当局が、見逃したからだ。
 街には、メッテルニヒが、皇帝を支配している、という噂が、流された。今の不景気は、メッテルニヒが皇帝を牛耳っているせいだ。
 それらの陰に、ゾフィー大公妃がいた……。



 「さあ、あなた。行きましょう」
ゾフィーは、夫のF・カール大公の腕を取った。
 宮殿の外へ出ていく。

 市民の間に、歓呼の声が沸き起こった。
 皇帝の弟(F・カール)その妻(ゾフィー)は、手を振って、民衆に応えた。


 今年、8月。夫妻の長男、フランツ・ヨーゼフは、18歳の誕生日を迎える。
 皇帝即位が許される年齢だ。







 メッテルニヒのウィーン体制は、完全に朽ち果てていた。
 プロレタリアートの不満は募り、暴動は、激しくなる一方だった。
 それに呼応するように、メッテルニヒ解任を叫ぶ声も、大きくなっていった。

 宮廷は、国民へ譲歩を示す必要があった。
 おとなしいと言われていたルードヴィヒ大公(先帝フランツの弟)が、皇族を代表して、メッテルニヒに引退を要求した。

 「私は、流血の原因になりたくない。また、政府を困らせるつもりもない。よろしい。辞任を受け容れましょう」
 メッテルニヒは言った。
 さらに続けた。
「これで、私の、フェルディナント皇帝守護の誓約は、無効となります。これは、フランツ帝(先帝)が、私に託された、任です」

 先帝(フランツ帝)は、死の床まで、自ら政務を執れない長男(フェルディナンド)を、心配していた。その御代の安寧を、何よりも望んでいた……。


 辞任を受け容れ、宮廷から自宅へ退こうとした時。メッテルニヒの馬車と知り、叫んだ者があった。

「この、ライヒシュタット公殺し!」




 翌日。メッテルニヒ一家は、ボヘミア、そしてロンドンへ向けて、亡命した。










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ライヒシュタット公とゾフィー大公妃については、「ライヒシュタット公とゾフィー大公妃―マクシミリアンは誰の子?」がございます。
https://www.alphapolis.co.jp/novel/268109487/427492085







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登場人物紹介

カール大公

1771.9.5 - 1847.4.30

(カール大公の恋)


ライヒシュタット公の母方の大叔父。1796年の革命戦争では、ジュールダン麾下サンブル=エ=ムーズ軍、モロー麾下ライン・モーゼル軍と戦い、両軍を分断させ、勝利を収める。1809年のナポレオン軍との戦い(対オーストリア戦)の後は軍務を退き、軍事論の著述に専念する。

レオポルディーネ

 1797.1.22 ‐ 1826.12.11

(もう一人の売られた花嫁)


ライヒシュタット公の母方の叔母。皇帝フランツの娘。ポルトガル王太子ペドロと結婚する。ナポレオンの侵攻を受け、ポルトガル王室は当時、植民地のブラジルへ避難していた。ペドロとの結婚の為、レオポルディーネも、ブラジルへ渡る。

ヨーハン大公

1782.1.20 - 1859.5.11

(アルプスに咲いた花)


ライヒシュタット公の大叔父。皇帝フランツ、カール大公の弟。兄のカールに憧れ、軍人となる。

アダム・ナイペルク

1775.4.8 - 1829.2.22

(片目の将軍)


オーストリアの軍人。フランス革命戦争で赴いたオランダで片目を失う怪我を負うも、捕虜交換の形で帰国した。

ドン・カルロス

1787.初演

(「ドン・カルロス」異聞)


シラー(シルレル)の『ドン・カルロス』は、ライヒシュタット公の愛読書だった。

チャットノベルもございます

「ドン・カルロス」異聞

マリア・テレサ

 1816.7.31 - 1867.8.8

(叶えられなかった約束)


カール大公の長女。

マリー・ルイーゼ

1791.12.12 - 1847.12.17

(2つの貴賤婚)


ライヒシュタット公の母。ナポレオンの二人目の妻、かつてのフランス皇妃。ウィーン会議でパルマに領土を貰い、5歳になる直前の息子を置いて旅立っていった。以後、全部で8回しか帰ってこなかった(最後の1回は、彼が公的に死の宣告をされた後)。

エドゥアルド・グルク

1801.11.17– 1841.3.31

(画家からの手紙)


ウィーンの宮廷画家。メッテルニヒに見いだされ、採用された。グルクの死から約170年後、彼が描いた絵が、モル男爵の屋敷で発見された。モル男爵は、かつてライヒシュタット公の補佐官で、その死の床に最後まで付き添った。

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