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文字数 2,918文字



 「あの、殿下」
おずおずと、スパイが声をかけた。
「ええとですね。エーボリ公女はどうなりました? お話の、けっこう前の方から、出てきてるはずですけど」

「エーボリ? 誰だっけ?」
プリンスは、夢から覚めた人のような表情を浮かべた。自分が語る物語の世界に、没頭していたのだ。

 スパイは呆れたように頭を振った。
「カルロスを慕っていた女性ですよ! 彼女は、カルロスに恋していたのに、彼の本命が王妃だと知って、王妃を裏切る決意をしたんです!」

「ああ、めんどくさい!」
プリンスは叫んだ。
「女って、本当にめんどくさいな!」
「……」

スパイは絶句した。それに気づかず、プリンスが続ける。
「男同士でいる方が、よっぽど気楽だ」

「……そりゃ、あなたは、男性の中で育ちましたからね」
肩を竦め、スパイは言った。
「なぜかあなたの身の回りには、女官は殆どいない。おかげで、私の生活に潤いがなくていけません」
「お前の生活なんて、知ったことか!」

「女性は大切です。女性がいるから、物語が動くんです。エーボリ公女は、カルロスと王妃の恋を、王に密告しようという、まさに、キーパーソンなわけですから。……あ。そもそも、カルロスの、不倫の恋はどうなったんです? 義理のお母さんになってしまった、王妃との!」

「不倫!?」
プリンスは、目を剥いた。
「エリザベト王妃は、気高く純潔な女性なんだ! 王を裏切って不倫なんか、するわけないだろ」

「……殿下。あなた、いろいろ騙されてますね」
スパイは心配そうだった。プリンスは、きょとんとして問い返す。
「騙されてる? 誰に?」

「そもそも、気高く純潔な女性なんて、この世に存在しません。それは、幻想です! あと、すぐに失神する女にも、ご用心なさいませ」
「言ってる意味が……」

「私が知っている中で、もっとも気高く純潔なお人は、殿下、あなたです」
真面目な顔をして、スパイは言った。

 プリンスは、顔を赤らめた。
「お前の言うことは正しい。……あっ! エーボリ公女の話だぞ? 彼女は、危険だった。カルロス王子の裏切りを、いつ王に密告するか、わかったものじゃない。それで、ボーサ侯は、緊急の処置をとらなければならなかった……」
 ……。







 ……王妃に会わねば。
 カルロスは思った。

 彼は、友は信じていたが、父は信じてはいなかった。王妃とは、何も、疚しいことはない。それでも、もし万が一、彼女に迷惑がかかるようなことがあってはいけないと思った。

 だが、彼は、孤立無援だった。
 王妃との仲を取り持ってくれていたロドリーゴは、今や、王の下僕(しもべ)だった。彼を頼るわけにはいかない。

 ……早く。
 ……一刻も早く、王妃に、警告を発せなければ。



 「エーボリ公女」
 招待もなく、何の約束もなく、いきなり、カルロスは、エーボリ公女の部屋を訪れた。
「君に、お願いがあるんだ」

 瞬時に、公女は、カルロスの「お願い」を見抜いた。彼の、王妃への恋心を知っていたからだ。

「いやです。王妃への橋渡しなんかしませからね」
にべもなく彼女は答えた。
「なんで私が!」
「そんな事言わないで。僕にはもう、頼れる人がいないんだ。世界中でたった一人、君を除いて」

 うるうると潤んだ瞳で、王子は、公女を見つめる。他の女性だったら、効果は絶大だったろう。だが、時期が悪かった。そして、相手が悪かった。

「そんな目をしたって、無駄ですよ。あなたは私をフったばかりじゃん」
公女は、ふい、と横を向いた。

「ああ、エーボリ。お願いだから、僕を恋していた時の気持ちを思い出してくれないか? 僕は、どうしても、王妃様に会わなくちゃならないんだ。もし君が、あの時の気持ちを、ほんのちょっとでも蘇らせてくれたなら……」

「ムリです」
「いやいや。他の女ならダメだろうけど、君は、その辺の女とは違うだろ? だから。ねえったら。ほら、こうして跪いてお願いするよ。ひと目でいい。どうか、王妃に会う手引きを……」


 「ああ、遅かったか!」

 そこへ、どかどかと踏み込んできた男があった。
 この国の宰相となったボーサ侯、ロドリーゴだった。近衛兵を2人、連れている。

 エーボリ公女は、憤慨した。鼻息荒く叫んだ。
「まあ! 今日は、なんて日でしょう! 婦人の部屋へ、男が二回も、勝手に入ってくるなんて!」

「うるさい、黙れ!」
ロドリーゴは、辺りを見回した。
「他に人はいないな。ぎり、間に合ったってとこか。おい、衛兵。宰相特権をもって命じる。王子を逮捕しろ」

「は?」
 衛兵たちは、自分の聞いたことが信じられなかったようだ。直立したまま動こうとしない。

「グズグズするな。王子を、牢獄に隔離するんだ!」

 ……こんな風に、王妃への恋心を言いふらすとは。
 ロドリーゴは憂慮した。
 ……もしこれが、王の耳に入ったら!
 息子だとて、容赦はしなかろう。間違いなくカルロスは、抹殺される。

 「ロドリーゴ……、」
か弱い声で、そのカルロスが呼びかけた。

「しっ、黙って! 人がいます。これ以上、一言だって、余計なことをしゃべってはなりませぬ。……衛兵! 早くしろ! ……王子。腰の剣をお預かりしますぞ。……とっとと動け! 衛兵!」

 てきぱきと、ロドリーゴは、兵たちに命じた。
 呆然としたまま、カルロスは、部屋から連れ出された。

 ロドリーゴは、短刀を引き抜いた。
「さてと。お待ちなさい、エーボリ公女」
 逃げ出しかけた公女の肩を、ぐいと掴んで引き止める。

「いや! 何をするの! 放して!」
「放すものか。王子はお前に、何を話した? お前は何を聞いたんだ?」
「な、なにも……」

「嘘をつけ。お前はそれを、誰に話す? ……だが、たった今、王子の話を聞いたばかりだ。誰ともおしゃべりする時間は、なかった」
「そっ、そうよっ! 私は、おしゃべり女じゃないわ! 秘密くらい、守れるわよ!」

「……毒はまだ、唇の上に浮かび上がっていない。だから、入れ物を壊せばいいんだ」
「なっ、何を言ってるの!?」

 身の危険を感じ、公女は激しく、身を捩った。
 ボーサ侯は、薄く笑った。

「逃げようとしても無駄だ。お前はもう、生きた人と話すことはないのだから」
「ひえーーーっ! やっぱり私を殺す気ね! 放して! 放してったら!」

 肩を掴んだ手をひっかき、その顔にツバを吐きかけ、エーボリ公女はひどく暴れた。
 ロドリーゴの顔が歪んだ。うつむいて、つぶやく。

「……それは、あまりに卑怯だ。か弱い女性を手にかけるなんて、俺にはできない」
 その彼の手に、公女が噛み付いた。

 ロドリーゴの腕から、力が抜けた。

「よい。行け」
彼は言った。

 悲鳴を上げ、女は、あっという間に逃げ去っていった。


 一人残り、ロドリーゴは、天を仰いだ。
「カルロス殿下は、きっとお救い申し上げる! 大丈夫。専制君主たる王をたばかるなど、簡単だ。王の手から友を救い出す為に、俺は……」

その目に冥い陰が落ちた。
「友を救う為なら、なんでもする」
小さな、だが、強い声で、彼はつぶやいた。
 ……。








 「ちょっと、それ、公女があんまりかわいそうなんじゃ……」
 スパイが叫んだ。
 熱に浮かされた人のように、プリンスが唇に指を当てる。
「しっ、黙って! これからが、いいとこなんだ……」
 ……。







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登場人物紹介

カール大公

1771.9.5 - 1847.4.30

(カール大公の恋)


ライヒシュタット公の母方の大叔父。1796年の革命戦争では、ジュールダン麾下サンブル=エ=ムーズ軍、モロー麾下ライン・モーゼル軍と戦い、両軍を分断させ、勝利を収める。1809年のナポレオン軍との戦い(対オーストリア戦)の後は軍務を退き、軍事論の著述に専念する。

レオポルディーネ

 1797.1.22 ‐ 1826.12.11

(もう一人の売られた花嫁)


ライヒシュタット公の母方の叔母。皇帝フランツの娘。ポルトガル王太子ペドロと結婚する。ナポレオンの侵攻を受け、ポルトガル王室は当時、植民地のブラジルへ避難していた。ペドロとの結婚の為、レオポルディーネも、ブラジルへ渡る。

ヨーハン大公

1782.1.20 - 1859.5.11

(アルプスに咲いた花)


ライヒシュタット公の大叔父。皇帝フランツ、カール大公の弟。兄のカールに憧れ、軍人となる。

アダム・ナイペルク

1775.4.8 - 1829.2.22

(片目の将軍)


オーストリアの軍人。フランス革命戦争で赴いたオランダで片目を失う怪我を負うも、捕虜交換の形で帰国した。

ドン・カルロス

1787.初演

(「ドン・カルロス」異聞)


シラー(シルレル)の『ドン・カルロス』は、ライヒシュタット公の愛読書だった。

チャットノベルもございます

「ドン・カルロス」異聞

マリア・テレサ

 1816.7.31 - 1867.8.8

(叶えられなかった約束)


カール大公の長女。

マリー・ルイーゼ

1791.12.12 - 1847.12.17

(2つの貴賤婚)


ライヒシュタット公の母。ナポレオンの二人目の妻、かつてのフランス皇妃。ウィーン会議でパルマに領土を貰い、5歳になる直前の息子を置いて旅立っていった。以後、全部で8回しか帰ってこなかった(最後の1回は、彼が公的に死の宣告をされた後)。

エドゥアルド・グルク

1801.11.17– 1841.3.31

(画家からの手紙)


ウィーンの宮廷画家。メッテルニヒに見いだされ、採用された。グルクの死から約170年後、彼が描いた絵が、モル男爵の屋敷で発見された。モル男爵は、かつてライヒシュタット公の補佐官で、その死の床に最後まで付き添った。

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