4 胸のなかに芽生えた小さな熱源

文字数 4,880文字

 二人はいったん本を置きにミシスの部屋へ戻りました。その途中、看護士の詰所(つめしょ)の前を通り過ぎる時、女性の看護士たちがグリューの上着についているなにかの紋章を目にして静かに(いろ)めき()ったのを、ミシスは見逃がしませんでした。そしてそのことには、グリュー本人も気づいているようでした。彼は本を置くとすぐさまミシスを急かして、一緒に一階の院内食堂へ向かいました。
 中庭を一望できる見晴らしの良いテーブル席に、二人は腰を落ち着けました。ミシスはこの食堂に入るのは初めてでした。でも今は空腹でもなければ喉も渇いていなかったので、なにを注文するべきか悩んだ末、グリューの提案で彼とおなじものを頼んでみることにしました。
「まあまあだな」コーヒーをすすったグリューが、ひとりごとのように言いました。
「にがい……」一口飲むなりミシスは顔をしかめます。
「待ってな」
 青年は立ち上がり、厨房の方からミルク差しと角砂糖の詰まった小瓶を持ってきてくれました。少女は礼を言ってどちらもたっぷりと黒い液体に投入しました。
「甘い。おいしい」
「外にはもっと美味いコーヒーを出す店がいくらでもある。ここを出られたら、行ってみるといい」
「ミルクと砂糖もある?」
「ははは。もちろん」
 中庭では入院患者の見舞いに来たのであろう子供たちが、楽しそうに走りまわっています。噴水は澄んだ水をとめどなく吹き上げ、樹々はそよそよと春風に揺れています。そしてその彼方には、今日も相変わらず黒い鉄柵が両腕を広げて居座り、あちら側の世界とこちら側の世界とを、まるで忠実な番犬のように寡黙に分断しています。
 鉄柵の真ん中に据えられた大きな鉄門を、ミシスはなんとはなしに眺めました。グリューが咳ばらいをして、少女の目を自分の方へと向けさせます。
「さっきも言ったけど、おれはきみの診断書を読ませてもらった。きみの現在の状況は、だいたい把握してるつもりだ。記憶のほとんどがなくなっちまって、いつ戻るかもわからないってのは、とても厄介な状況だと思う。しかし」
 そこで青年は指先で軽くテーブルを叩きました。こつんと音がして、二つのカップのなかの水面がかすかに揺れました。
「しかしきみには、この世のなかで生活していくための基本的な能力も、健康で不自由なく動かせる体も、ちゃんと残されている。それはなにはともあれ、素晴らしいことだ。無責任な言いかたになるかもしれないが、あまり自分のことを悲観する必要はないと思うよ」
 その明るくきっぱりとした物言いに対して、ミシスはちょっと面食らいながらも、深くうなずきました。ぜんぜん、無責任なことを言われている気はしませんでした。
「あんなひどい場所にたった一人で倒れてて、助かっただけでも奇跡みたいなもんだぜ。……って、助けたおれが言うのも、なんだか恩着せがましいけどさ」
「いいえ、とんでもない」少女は笑って首を振ります。「とても感謝しています、グリューさんには」
「グリューでいいよ。かしこまった話しかたもやめてくれ」
「わかった。ありがとう、グリュー」
 満足そうにうなずくと、青年はゆったりとカップを傾けました。
「でもわたし、そんなにひどい場所に寝てたの?」少女が眉間に(しわ)を寄せます。
「まあね」青年は軽く顔をしかめます。「ひどいっていうか、あのあたりは、本当になんにもないところなんだよ。ただただ真っ白な砂で覆われた、まさに不毛の土地さ。きみは、そのど真ん中に一人きりで寝てたんだぜ。近頃はあのへんにも隊商の行路が増えてきてるらしいから、いつかは誰かに見つけられたかもしれないけど、その時まで無事でいられたかどうかはわからんね」
「どうしてわたしは、そんなとこへ行ったのかしら」
「こっちが訊きたいよ。あんな場所を通るのは、それこそ隊商の連中か、あるいは、旅暮らしの民族くらいのもんだろう。そしてきみのその生っ(ちろ)い肌を見るに、きみがそういう人らの一員だったということはないはずだ」
「ほんとに? その人たちのなかにも、肌が焼けてない人が少しはいるかもしれないよ」
「可能性はたしかにゼロじゃない。でもやっぱり、それはないと思うな」青年は軽く腕を組みます。「それに、きみが着てた服。この時期あんな軽装で砂漠を渡る人なんて、いやしないよ」
「服?」少女はぱっと顔を上げました。「どんなの?」
「見てないのか? こう、ふわっとしてて、全身を包むような形の……ローブっていうのかな、あれ」
「どんな色だった?」
「青。見事に青の一色」
 ミシスはその服の様子を想像してみましたが、やはりなにもぴんときません。
「だめね、覚えてない。でも、見つかった時に着てたのなら、どこに持っていかれちゃったんだろう」
「あちこち破れてたからな。処分されちまったのかも」
「見てみたかったな……」
 二人ともカップの中身を半分ほど空にしました。ミシスは一冊だけ連れてきていた膝の上の本を、なにげなくテーブルに置きました。グリューがそれに目を留めます。
「イーノの本か」
「看護士さんが薦めてくれたの」
「そこからなのか」青年は困ったように苦笑します。
「なにか可笑(おか)しい?」
「いやいや、ごめん。普通は誰でも、物心つく前からまわりの大人たちに教わるもんなんだよ。言葉の使いかたや数字の読みかたを教わるよりも、ずっと前にね。きみは順番が逆なんだな、と思ってさ」
「イーノってなんなの?」少女は率直にたずねます。
「なんだと思う?」青年は間を置かずにたずね返します。
「この世界の生命そのものだって、看護士さんは言ってた」少し呼吸を整えて、少女はこたえます。「イーノに関係ないものは、この世界になに一つないって。……あ、それじゃあ、さっきグリューが見せてくれた顕術っていうのも、きっとイーノと関係あるのね?」
「そのとおり」グリューはうなずきます。「イーノと世界の関係を理解するのは、実のところ、ちっとも難しいことじゃない。むしろ、これ以上に単純にはなれないっていうくらい単純なもんさ。イーノってのはね、つまり、万物の源素(げんそ)のことだ」
「げんそ」
「そう。そして、このどこまで広がってるのか想像もつかん巨大な宇宙は、たった一つの、その源素だけでできていると言われてる。ただそれが、ミシスになったり、おれになったり、子供たちや樹や風や水や光になったりしてるってだけのことなんだ。みんなそれぞれ姿も名前も機能も全部ちがってるけど、本当はおなじ一つのものがすべての存在を形作っていて、すべてのものに命を与えて生かしてくれてる、ってことだ。すごく単純な仕組みだろ? 根っこがそれくらい単純だから、世界はこうして無限に複雑な様相(ようそう)を表現することができるんだ」
「……なるほど」
 ミシスは納得したようにうなずきはしましたが、本当のところはいまいち理解が追いついておらず、なんだか夢のような話だな、と漠然とした感想を抱くばかりでした。甘いミルクコーヒーを最後まで飲むと、改めて口を開きます。
「じゃあ、顕術とイーノの関係は――」
「しまった」
 とつぜんはっと体を震わせると、グリューは慌てて壁の時計を見あげました。
「いかんいかん。ゆっくりしすぎた」そう言うと青年は急いで残りのコーヒーを飲み干します。「話の途中でわるいけど、おれは戻らなきゃならない。続きは、自分で調べてごらん」
 ミシスはうなずいて、本を小脇に抱えるとグリューと一緒に席を立ちました。そして黒い鉄門の前まで見送りに行きました。
 門を出る手前で青年は立ちどまり、これまでになく真剣な顔をして、少女の正面に向き直りました。
「なぁ、ミシス。おれはこれでも、きみに対して責任を感じてるんだ。なにしろおれがこの手で保護して、独断でここまで連れてきたんだからね。でも、正直言って、おれは自分の身一つの面倒を見ることでまだまだ手いっぱいで、きみの身許を引き受けることができそうにない。だからおれはこれから、きみが外の世界で安全に暮らしていけるように、信頼の置ける居場所がどこかにないか、あちこちに当たってみるつもりだ」
 思ってもみない申し出でした。青年のその言葉を耳にした瞬間、少女のなかで時間の流れがいっとき静止したように感じられました。世界がほんの少し輝きを増し、胸の奥がじわりと温かくなるような、そんな感覚を抱きました。子供たちの歓声も、噴水の響きも、数秒前までとはちがって聴こえます。
「ありがとう、グリュー」少女はみずからの胸に手を置いて言いました。「わたしも、できる限りのこと、やってみるね。まずは、勉強から……」
「そう」ぱしんと両手を叩き合わせて、青年は笑顔を浮かべます。「勉強は大切だ。きみくらいの歳で世間に出る子もいないことはないが、大半はまだしかるべき場所でしかるべき教育を受けて、いろんなことを学んだり経験したりしながら、自分の将来を自分の意思で思い描く機会が与えられてしかるべきなんだ。もちろんきみにも、その権利がある」
「……それが、どこから来たのかも、何者なのかもわからない人間でも?」
「当たり前だろ」
 ぽんと少女の肩を叩くと、手を振りながら青年は門を飛び出しました。そしてあっという間に走り去ってしまいました。
 中庭のベンチに腰をおろして、頭上に広がる樹木の枝葉を眺めながら、ミシスはまだ胸のなかに芽生えた小さな熱源の存在を感じ続けていました。これまでずっと自分のことを、人間の形をした異物かなにかのように、あるいは人々に溶け込めない出来損ないのように感じてきた彼女でしたが、今では頼もしい味方ができたように思えて、少しだけ心が晴れやかになっていました。
 病棟に戻ると、看護士の詰所に立ち寄って、自分が発見された時に着ていたという服を知らないかとたずねてみました。
「ああ、あれね」若い女性の看護士が思いだしたように言いました。「そういえば、軍の鑑識から成果なしってことで返却されてきたばかりよ」
「わたしが貰ってもいいですか?」
「ええ、もちろん。あなたのものですもの。でも、いいの? ずいぶん傷んでいたけど」
「かまいません」
 なんといっても自分の唯一の持ち物なんだから、と少女は胸の内で付け加えました。
 受け取った服は、たしかに酷い有様になっていました。まるでたくさんの鳥に襲われでもしたかのような細かい穴があちらこちらに空いていて、袖や裾の先もことごとくほつれたり破れたりしています。とても人前で着られるような状態ではありません。
 でも不思議だな、と少女は思います。こんなにぼろぼろなのに、自分の体はほとんど無傷だった。きっと、この服が守ってくれたのかな。
 少女は化粧室に行って丁寧にその青いローブを洗い、自分の部屋の窓辺に干しました。きっと明日も晴れるだろう、なら明日には乾いてくれるだろうと、一人静かに思いを巡らせながら。
 その夜、熱い湯を浴びてから本を持ってベッドに入ると、あっというまに消灯時間がやって来ました。その時間になると、有無を言わさずに、病棟のすべての入院患者の部屋のランプは消されてしまいます。そして患者がそれを勝手に()けることは、固く禁じられています。
 巡回の看護士と感情のこもらないおやすみの挨拶を交わすと、真っ暗な部屋のなかで少女はただ独り、読むはずだった本を腕のなかに抱えたまま、深いため息と共にベッドに身を横たえました。
「いつか一晩じゅう、眠くなるまで好きなだけ本を読める日が来るかな……」
 少女は悲しげに小声でささやくと、本を机に置いて、しぶしぶ両目を閉じました。
 好きなだけベッドで本を読める夜。
 そういう夜は、実はそんなに遠くない未来で彼女を待ち受けていたのですが、もちろんこの時の彼女には知る由もありません。そしてその機会は、ある意味では彼女自身がその瞳の奥に宿した光が、巡り巡ってみずからに運んできてくれた(えん)によるものだったのです。
 ミシスの心のなかには、これからたくさんのことを学んで、どうにか自分の足で前へ進んでいきたいというみずみずしい情熱が、たしかに芽生え育ちはじめていたのです。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

◆ミシス


≫『聖巨兵カセドラ』本編シリーズの主人公。推定年齢は15歳前後。大陸北西部の白砂地帯に一人倒れていたところを王国軍に保護された、記憶喪失の少女。

◆ノエリィ・エーレンガート


≫旧コランダム公国の郊外の丘に、母親と二人暮らす少女。思いがけない縁の運びにより、生涯の親友となるミシスと巡り逢う。

◆ピレシュ・ペパーズ


≫エーレンガート女学院の生徒代表と寮長を兼任する俊才にして、一流の剣士。ハスキル院長を敬慕している。ノエリィとは幼馴染みどうし。

◆ハスキル・エーレンガート


≫エーレンガート女学院の創立者にして学院長。ノエリィの実母。大戦前から数々の悲運を経験してきた苦労人だが、常に笑顔と優しい言葉を絶やさない名教師。

◆グリュー・ケアリ


≫ホルンフェルス王国軍所属の科学者。名門ケアリ家の長子。現在はマノン・ディーダラス博士の助手を務めている。無類の料理好き。

◆マノン・ディーダラス


≫若き天才発明家として名を馳せる科学者。ホルンフェルス王国軍所属。出身地はコランダム公国。輝かしい赤髪は持って生まれたもの。

◆レスコーリア


≫無二の相棒として長年マノンと寝食を共にしてきた、アトマ族の少女。アトマ族としてはめずらしい高度な知的能力を持つ。性格は至って自由奔放だが、実はとても義理堅い。

◆ゼーバルト・クラナッハ


≫コランダムの軍人。巨兵大戦前には、同国の騎士団長を務めていた。

◆ライカ・キャラウェイ


≫コランダム軍に所属する武人。公国の名門キャラウェイ家の長女。常時冷静沈着だが、その身の内に秘める覇気は並々ならぬものがある。

◆レンカ・キャラウェイ


≫キャラウェイ家の次女。姉のライカと共にコランダム軍に所属している。いささか気性が荒く我儘で、興味がないことには一切関与しようとしない。

◆ヤッシャ・レーヴェンイェルム


≫ホルンフェルス王国軍の将軍。全騎士団及び国王親衛隊を含む総軍の長。〈戦王〉と讃えられる国王トーメをして、「魂の兄弟」と言わしめた傑物。

◆〈アルマンド〉


≫ホルンフェルス王国軍の主力量産型カセドラ。史上初めて完全な建造に成功したカセドラとして知られているが、今なお世界最優秀の量産機と評される。

◆〈ラルゲット〉


≫かつてコランダム公国が主力として運用していた量産型カセドラ。〈巨兵大戦〉終結後は、一切の製造が禁止された。

◆〈□□□□□〉


≫???

◆〈□□□□〉


≫???

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み