ミユキ

文字数 1,724文字

ミユキが退院したのは、コウキが島を出た後だった。眠ってばかりで、弟より回復が遅かったのだ。彼女はここ数日の記憶が曖昧で、その内のいくつかは悪い夢だった気がしていた。
それからすぐ嵐が訪れた。彼女はとても心細かった。だから再び家族が揃った時、ミユキは喜びのあまり刹那弟に覚えた気味の悪い違和感は忘れることにした。
それでも何日かして、夜中にふと目が醒めた時、それらは夢ではなかったことを思い知らされた。
(─何、

)
彼女の隣で眠っていたのは、弟の姿かたちをした、別の何かだった。驚きのあまり、彼女はそれから朝までのことを覚えていない。
異常事態を知ったミユキはそれからしばらく慎重にコウキを監視し、遂にはこう結論づけた。
弟には、得体の知れない何かが混じっている、と。
彼女は不思議だった。なぜ誰も気づかないのか。特に母親なんて、あの事故からは四六時中と言っていい程いつも一緒にいるのに。
だが一方でその現実が、彼女に使命感を持たせた。
(私がなんとかしなくちゃ)
幼いミユキは、大切な家族を守るという使命感に静かに燃えていた。
それから、彼女は手探りながらに努力した。
コウキの日頃の言動を注視しながら、本を読み、事の発端であろう寺や裏山、果てはこの島の歴史や伝承を調べた。また、オカルトサイトをこっそり閲覧してみたりもした。
しかし、コウキの変化が、

によるものなのか成長過程によるものなのかは判別できなかったし、本やネットにも知りたい情報はなかった。

何もわからないまま何年も過ぎる内、使命感よりもある恐怖が彼女の心を占めるようになっていった。
(もしコウキから

を取り除いたら、あのこはどうなってしまうんだろう)
今は驚く程穏やかで快適な生活が営まれている。自分がしていることは、守ると誓ったはずの家族の平和を、自ら脅かすことになるのではないか。
現状を打開する手だても見つからず途方に暮れていた彼女は、そんな恐怖に支配されかけていた。

現状維持が決定的になったのは、姉弟が中学生の頃だった。
帰宅したミユキは開きかけのドアの隙間からリビングに母親がいるのが見えた。洗濯物を畳んでいた母は、コウキの学生シャツを持ったところで突然動かなくなった。
それは初めて見るとても不思議な─迷いと決意が同居したような─何とも言えない表情(かお)だった。
声をかけそびれたミユキの手がドアノブに当たった音で、母親は気づいて「おかえり」とぎこちなく笑った。
「どうしたの?」とミユキが尋ねても、母親は「え、何?」と誤魔化したが、なおも訝しげに娘に見つめられた彼女は再びシャツに目を落とし
「…こんなに大きくなってたんだなぁって」
と言いながら息子のシャツを撫でた。

…」
優しい目のまま呟いて、それから眉間に皺を寄せ口を結んだ。
ミユキはその表情(かお)を知っていた。弟のことを考える時の自分のそれと、全く同じであった。
(母さんは、知ってたんだ)
独りで戦っていたつもりだった彼女は愕然とした。
それから彼女は、母に(なら)って今の状態が少しでも長く続くための努力をするように方針転換したのだった。

それでも時折、ミユキはこの現実をどうにかしてしまいたい衝動に駆られた。そんな夜は家を出て歩き回りながら頭を冷やすことにしている。それでも収まらない時は、裏山や寺の方で、かつて本で読んだ呪文や祝詞を手当たり次第に唱えてみたりしてる。いっそ、何か起きてくれないかと思いながら。
またある時は、溢れる涙を渇れるまでただただ流し続けた。その時はいつも、あの日の光景が頭に浮かんできた。あの、地面にぽっかりと空いた穴から見えた、真っ白な小さい手が。

彼女は本当に本当に長い間、出口のない迷路の迷子であった。

この夏、ヒロが来てからミユキは動揺を隠すので精一杯だった。自棄(やけ)になっていたはずなのに、本当はそれをずっと怖れていたのだと認めざるを得なかった。
近づかないで
気づかないで
刺激しないで
でももう、止められない気がした。それでも抗う術を模索しているのに、あの静かで力強い線香花火に、共に見つめる彼らの体温に、ミユキの心は溶かされそうになってしまう。彼女は不意に、言ってしまいそうになる。
もう、どうしたらいいの
誰か、教えて
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