第37話 武黒の過去
文字数 1,873文字
満開の梅の木が見守るなか、十二歳の少年、鬼丸は草原で木刀を振っていた。日中とはいえ、まだ寒いのにも関わらず、少年の額からは汗がしたたれおちる。目に入った汗を拭おうとした時だった。
──サァァァ…ッ。
ふいに暖かい風が吹いた。風が梅の香りを届けてくれる。
──もうすぐ春だ。
鬼丸は手ぬぐいで顔の汗を拭いながら、梅の木を見上げた。奥にある桜の木はまだ蕾だけど、きっともうすぐ咲く。
──そしたら……花見をしよう。新しい家族と一緒に……。
鬼丸もこの日を楽しみにしていた。想像して、思わず顔がにやけてしまう。だが、遠くから父が走ってくるのが見えて、鬼丸は真顔になった。
「鬼丸、生まれたぞ。かわいい姫だ!」
男は必死に走ってきたのだろう。現役の侍だというのに、息を切らして膝に手をついている。だが、鬼丸は男を心配している場合ではなかった。
「そんなに急がんでも妹は逃げないぞ」
男は、家に向かって走っていく鬼丸の後ろ姿を笑ってみていた。もうすっかりお兄ちゃんだなと呟いて。
§
「
男は正座したまま女性、凰女姫を優しい顔で見つめる。布団から起き上がり、赤子を抱く女性を見つめる男の顔は、いつもの厳しい侍の顔でもなく、領主の顔でもなかった。まぎれもなく、二児の父親の顔で愛する妻を見ていた。
「雪うさぎみたいに真っ白!」
その隣に正座していた鬼丸も、赤子の姿に驚いたりせずに嬉しそうに見つめていた。
「言ったとおりでしょう。鬼丸はどんな子でも喜ぶって」
ね、あなたと凰女姫は男に微笑む。
「あぁ、だが俺も嬉しいぞ。白子様な上に龍が宿っている。きっと凰女姫ゆずりの美人になるぞ」
男は本当に嬉しそうだった。生まれたばかりの赤子が異様な姿をしているにも関わらず。赤子は本当に真っ白だったのだ。色素がない上に、頬の一部や背中に鱗があった赤子。そして何より大きくて赤い瞳。その白蛇を思わせるような姿を見た産婆は恐怖のあまり、そのまま殺めようとした程だ。それを凰女姫は龍が宿った子ですと止め、腰を抜かす産婆を無視し、姫自らが産湯で我が子を洗おうとしたのだった。
最も龍が宿っていなかったとしても、この一家は赤子の誕生を喜んだだろう。
「抱いてみますか?」
凰女姫が鬼丸に声をかけると、鬼丸は目を輝かせてうなづいた。しかし、鬼丸がおそるおそる妹を抱く姿を見て夫婦は笑ってしまった。鬼丸は頬を膨らませる。だが、大人しく眠る赤子を見て、鬼丸は顔を綻ばせた。
「真白、お兄ちゃんだぞぉ」
鬼丸の中で、この子の名前は真白に決まったらしい。眠る赤子に微笑む息子を見て、男は勝手に名前を決めおってと嘆いた。
「よいではないですか。将来、武黒を次ぐ者の妹、真白。素敵な名前です」
しかし、凰女姫もこの名前を気に入ったようだ。
「通り名は真白だな」
男は、兄妹を優しく見つめる妻の横顔を見て観念した。
§
夜になっていた。月が綺麗な夜。今夜は冷えるかもしれない。白い息を吐きながら鬼丸は廊下を忍び足で歩いていた。
──真白、なんで動かないんだろ?
鬼丸は赤子を抱いて感じた違和感を確かめたくて、母のいる部屋を訪ねようとしたのだ。しかし、そこには父もいたようだ。
「だが、必要があったから龍が産まれたのだ。我が子を助けてくれぬか?」
閉めきられた障子から聞こえる両親の声。父の声色を聞いて、鬼丸は自室へ戻った方がいいと判断し、静かに踵を返す。その時だった。
「鬼丸、聞いていたのか」
男が廊下に出てきて、息子に声をかけた。
「申し訳ありません。父上」
鬼丸は廊下に正座した。立ち聞きするつもりはなかったと。だが、男は優しい顔に戻ると、息子の肩に手をかけた。気にするなと。しかし、すぐに男の表情は真剣なものに戻る。
「よいか。何があっても妹を恨むな」
男はまっすぐ息子の目を見つめた。だが、鬼丸は気負されることなくうなづく。
「はい、恨みません。俺も母上と妹を守ってみせます」
男は予想外の言葉に一瞬固まったが、やがて大笑いした。さすがは武黒を次ぐ者だと一人納得したのだ。
「そうだ。それでこそ、奥美の息子だ。よいか。お前は武黒を次ぐ者だ。お前の優しさで領地を、大切な人を救ってみせよ。その為に刀はある」