第38話 奥美の巫女の手記
文字数 1,576文字
月がとてもとても綺麗な夜だった。冬の雲一つない夜空。
「奥美に伝わる龍の化身……か。」
夫は障子を閉めると、我が子を見つめて真剣な表情をした。私は眠る女の子を抱きながら畳に正座して夫に向き合う。
「とはいえ、魂のないまま生まれてしまいましたが……」
私はまともに子どもを生んであげられなかったことを申し訳なく思った。黒い着物を身にまとった夫を見つめる。満月だからだろうか。閉めたにも関わらず月明かりに照らされる夫。かなりの長身のこの夫の長く大きな影が畳の部屋まで伸びている。
「だが、必要があったから龍が産まれたのだ。我が子を助けてくれぬか?」
夫は振り向いて、私に優しく微笑んでくれた。私は驚いた顔で夫を見つめていたと思う。それを言いたいのは私のほうであったからだ。夫は妻が一人で背負わないよう、先に私の願いを代弁してくれたのだ。
私が口を開きかけた時だった。
「ちょっと外を見てくる」
夫は急に席を立った。誰か来たのだろう。もしかしたら鬼丸が妹を心配して見に来たのかもしれない。
§
しばらくして、夫は戻ってきた。
「鬼丸の奴、将来は過保護になるなぁ」
参ったなぁと笑う夫。夫なりに雰囲気を和ませようとしているのだろう。だが
「あなたは領主です」
いくら我が子が愛しいとはいえ、娘を助けることが、この領地のためになるのか。私はためらう気持ちもあった。夫は私情で動かないだろうと信じている。だけど凰女姫も自分のことだけでは動くことが出来ない。
「あぁ、だからこそだよ。目先のことを考えれば、この子を助けるのは正しいとは言えない。だが五十年先、百年先の長い目で見つめればこの子を助けることで、奥美の地は繁栄するのではないか」
私は夫の顔を見つめた。私の目の前に立っているのは、紛れもなく父親である前に一領土を統べる領主の顔をした夫だった。しかし領主は父親の顔に戻ると女の子に向かって微笑む。だが対照的に私は暗い顔をしたままだったと思う。私には母でも妻でもない立場がある。私もこの領地のために役割を果たさねばならない。
「領主としての強いお気持ちはわかりました。ですが私が力を失えば、あなたも私も死ぬやもしれません」
領主として向き合う愛する夫。ならば私もまたこの地を守るために祈りを捧げる巫女として告げなければならない。領主に愛される可愛らしい姫である前に、自分は強い力を宿して生まれてしまった巫女でもあるのだからと。
諸国を統べる者に命をうけ土地を治める領主と、彼を守る強い霊力を持った巫女がいて領地と民は潤う。
自分の娘を救うためとはいえ、領主と巫女が命を投げ出せば、奥美の土地はどうなるのだろうか。
だが妻の心配を拭うかのように領主は声をあげて笑うと私に近付く。私は領主の顔を凝視した。領主は私の長い黒髪を手に取り、毛先に口づけをする。
「愛する者一人も守れないで、領主が勤まるわけがあるまい。だけれど、私も人の親だ。この子を助けたい気持ちもあるのだよ。信じて、この子達に託そう。奥美の未来を」
そこには所詮女であり母親の私がいたと思う。なぜ自分が出会う人々は力強く運命に足掻いていけるのだろうか。
「それに君はあの子に教えられたのだろう。想いの強さを」
夫は娘を私から受けとると、眠ったまま動くことのない女の子を両腕に抱きながら笑いかけていた。
「えぇ、遠い異国の小さな子どもに教えられてしまいました」