第49話 魔法で制御できないもの
文字数 2,111文字
──とうとう、この時が来てしまったわね。
魔女が眺めるグラスの中の赤ワインには奥美の状況が写し出されていた。それを見た魔女は顔をしかめる。なぜなら山の中で肉塊をむさぼる黒い龍の姿が写っていたからだ。龍が食べようとむさぼっている口元には赤い血がべっとりついていた。
突如、月を覆っていた雲が晴れる。月明かりが龍のいる森に差し込む。闇に隠れていたカラスのような黒い翼が映し出された。龍はこちらに気付いたのだろう。怒りのこもった目で魔女を睨んだ。
──コンコン。
ドアをノックする音がした。魔女は入ってという代わりにワイングラスをテーブルの上に置くと、右手で招く仕草をした。するとカチャリと誰も開けていないのに静かにドアが開く。魔女は相変わらず左腕で頬づえをつきながら、ドアをノックした者を見つめた。
「お入りなさいな」
魔女は廊下に立っている少年りゅかに声をかけた。
りゅかは魔女に促され、椅子に座る。
「あなたも気付いたのね」
魔女は赤ワインを一口飲む。りゅかは魔女を睨む。膝の上にあるこぶしは握りしめられていた。
「いつから気付いていたの?」
りゅかもまた、奥美の龍襲撃に気付いたのだろう。
「私も最近よ」
とはいえ、少なくとももう数日は立っている。魔女はこの
「真白に伝えなきゃ」
りゅかが立ち上がろうとするのを魔女は制した。
「辞めなさい。彼女はここから出ることを望んでいないわ」
魔女はワインを片手にりゅかを見つめる。りゅかは座り直すと魔女を見つめた。
「放っておけば人が死ぬ。それに龍へのあたりが強くなる」
りゅかもまた龍であるからこそ真白に同情していた。奥美を真白と一緒に守ってきたにも関わらず、何かあれば龍のせいにされてしまう。それはりゅか自身も真白の一番そばにいたから自分のことのように辛く感じていた。それに何より、りゅかは真白が心配なのだ。真白への周囲のあたりが強くなることを懸念していた。
「言わせておけばいいじゃないの。人なんて勝手な生き物よ」
だが、魔女は心底どうでもいいと言わんばかりに吐き捨てる。
「人の命がかかっているんだよ! それにあの龍はあなたでしょう」
りゅかは魔女に対して珍しく声をあらげた。自分のせいで人が死んでいるのに当の本人は放っておけと言って何もしないのだ。魔女はやはりめんどくさそうな顔をした。
「そうよ。私の体だったものよ。でも今は
魔女はワインを飲み干すと、りゅかを見つめた。
「あなたは、もう別の人格をもった分身を自分だと言えるかしら? 真白も自分だから、本人が望むまいが、あなたの魂を殺したことを抱えて生きることを強要出来る?」
魔女はトゲのある内容ではあるが、口調は淡々としていた。元の世界に戻るということは、どちらかが死ぬこと。当然、りゅかは自分の死を望んでいる。
「いいかしら? りゅか。他人の行動はコントロールできないし、するものでもないわ。ましてや責任をとろうなんて傲慢よ」
これはりゅかでなく、真白が決めることだと魔女は告げた。そして魂だけとなった魔女とりゅかにはもう何も出来ないのだと告げる。りゅかはそれでも不満そうに唇を噛み締めている。
「それでも、奥美を助けたいと言うのならあなたが生きることを選びなさい。彼女はそれを望んでいる」
魔女はりゅかが真白の体に戻って奥美を救えと告げる。しかし、それを聞いてりゅかは動揺した。りゅかの行動原理は常に真白のためにあるからだ。大切な人の幸せを願っているつもりだった。だが、それは彼女の願いではない。
──真白だけは死なせたくないのに。
彼女の傷つく顔だけは見たくないのに、守りたいのに傷つけてしまう運命。それでもどちらかしか生き残れないなら、真白に生きてほしい。これは本心。だけど。
──これは僕のエゴ以外のなにものでもない。
わかっている。痛いほど真白の気持ちも、良い人でありたい自分の汚さもわかっている。それでもりゅかは唇を噛み締め、拳を固く握りしめることしか出来ずにいた。
「りゅか。生きている者に任せましょう」
もうじき、武黒が来ると魔女はりゅかに向かってなだめるように言った。
「出来ないことはどうしてもあるわ。出来ないことは弱さなんかじゃない。それにあなただけが頑張ってもどうしようもないこともあるの。頼りなさいな。誰かを」
魔女はりゅかをなだめた。若さゆえに全力で突っ走る危うさがこの少年にもある。確かに優秀な魔術師だが、時には自分だけではなく、人を信じてほしいと魔女は願わずにはいられなかった。
──どんな時も人は強い生き物よ。
龍の力がなくたって、魔力がなくたって、武黒のように運命に足掻いていける存在を、頼れる存在がいることを知ってほしかった。