第6話 二人のシチュー

文字数 2,095文字

 一樹は桜が剥いたじゃがいもをきれいにカットしている。
「ふふふ」
「どうかした?」
「新婚みたいです」と桜は笑いながら、人参の皮を剥き始める。
 幸せそうな横顔を見せてくれてくれるので、一樹も温かい気持ちになる。
「こうして一緒にご飯作るのって、何だか、新婚って気がしませんか?」
「別に新婚じゃなくても、ずっと一緒に料理してもいいし…」と一樹は本当にそう思って言った。
「ずっと一緒ですよ? 料理しなくても良いですから」と桜は唇を尖らせる。
 今日はシチューを作ると言っている。寒い日にはピッタリだ。お風呂に入ったおかげで、体は暖かくなっている。桜は自分の好きなうずらの卵を茹で始める。シチューに入れると言った時は不思議な気がしたが、ほとんど桜が食べるので、問題はなかった。
「桜…あの…やっぱり気になる?」
「奥さんのことですか?」
「うん」
「私は…気にならないと言えば…嘘になりますけど。でも色々あったから、こうして…一緒にいられるので…。ただ少しだけ一樹さんの気持ちを楽にしてあげられたら良いなって思います。だって…私といるのに罪悪感まで感じなくて良いでしょう?」と頰を膨らませる。
「そうだね…。幸せすぎるからかもしれない」
「え?」
「幸せに慣れてないから…かな」と一樹が言うと、桜は近寄って、横から腰でぽん、と一樹を押した。
「私もですよ。幸せで嬉しくて、怖いくらいです。きっと後からひどいことが起こるんじゃないかって思ったりして…」
「そんなこと…」
「そんなことです。そんな起きてもいないことを考えて、不安になって…。だから…外でずっと雪だるま作ってました。不安と雪を固めてみました。そしたら…自分で不安を作っているんだなって思って。一樹さんのことただ大好きなだけで良いかって。何にも取り柄のない私だけど、それだけでも一緒にいる価値あるかな? って」
「…桜はものすごく僕にとってかけがえのない存在だから」と言って、一樹は桜を引き寄せてキスをする。
 柔らかい唇に触れていることが奇跡のように思える。少し顔を離すとまつ毛が震えていた。上気した頰に触れると桜はその手をそっと外した。
「一樹さん…。一緒に料理は楽しいですけど、少しも進まないので、ピアノ弾いててください」
 そしてシチューが出来上がるまでピアノの練習をすることになった。桜が雪だるまを作りながら、もしかしたら泣いていたのかもしれない、と色々考えてしまう。それでも大好きだと言ってくれて嬉しくて、ありがたく思いつつ、桜のように妻を素直に愛せなかったことが胸に響く。

 妻の細い腕、首、腰、すぐに折れてしまいそうで、どうして良いのか分からなかった。彼女からの愛が煩わしく感じることもあった。自分は食べないのに一樹のためにだけに用意された食事。公演があると帰宅が深夜になることもあるのに、起きて待っていてくれた朝型の妻。何もかも一樹に合わされた生活。きちんと治療、リハビリすれば足だってよくなっていたかもしれない。本当はバレエを続けたかったんじゃないか、と思ったのに、「バレエはもういいの」という彼女に何も聞けなかった。
 そんな話もできずに一緒に暮らしていた。

「一樹さん、できましたよ」と桜の柔らかい声が聞こえる。
「早かったね」
「だって…。大分手伝ってくれてたから」と笑う。
「足手まといじゃなかった?」
「いいえ。また手伝ってください。でも…一樹さんが隣にいると楽しくて、ちょっと時間かかりますけどね」
 どうしてこんな風に話ができなかったのだろう、と微笑む桜を見て、懺悔のような思いが迫ってくる。 
「また」と言って、桜が体をぶつけてくる。
「何?」と抱きしめて、髪を撫でる。
「また辛いこと考えてる」と顔を上げて、頰を膨らませた。
「あ」
「もう、せっかく作ったシチューが台無しですよ。早く食べましょう?」と言って手を引かれる。
 暖かげな湯気が立っている。二人で向かい合って、食卓に座った。桜は「いただきます」と言って、早速食べ始める。相変わらずハムスターのように頰を膨らませている。わざと明るく振る舞っている桜がこのままだといつか枯渇するかもしれない。
「桜…」
「はい?」
「ありがとう。美味しい」と一樹が言うと、思い切り嬉しそな顔をした後、照れたように笑った。
「一樹さんのジャガイモのカットサイズがいいんですよ」
「…後で、少しだけ雪だるま見に行こう。さっきは一人で行ったから」
「せっかく温まったのに冷えちゃいますよ」
「そうだね」
「一樹さん…ありがとうございます」
「え?」
「私が内心、落ち込んでるの…分かってるんでしょう? でも私、誰より大好きですから。奥さんにだって…負けません」と言って唇を横に結んだ。
 そう言った唇が震えて、目から涙が溢れた。手を伸ばして、涙に触れる。涙を熱いと感じた。
 目の前の大切なものを蔑ろにして、過去に懺悔しても仕方のないことだ、と一樹は思った。
「桜は…愛されてること分かってないな」
 涙を溢していた目が大きくなる。
「誰よりも大切に思ってる」
 心からそう思った。だから過去に蓋をする。
 スプーンですくったシチューにうずらの卵が入っていた。
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