第7話 過去の恋

文字数 2,268文字

 食後に一樹がピアノを弾いているうちに、桜はソファで眠ってしまった。そっと横にしてブランケットを掛けると、うっすら目を開けたが、すぐに微笑んで眠ってしまった。雪だるまを作ったり、雪合戦をしたりと、疲れたのだろう。しばらくそのまま放置しておいた。

 そろそろ入試の時期だ。試験官としての仕事がある。今年の入学する学生を担当することはないが、試験官として合否に関わる。コンクール受賞歴がつらつら並んだ受験生たちが揃うだろう。コンクールより緊張するのが受験だ。コンクールは落ちても、次回というものがある。受験はもちろん次回がないわけではないが、一年を学生で過ごせるのか、浪人生として過ごすのかではやはりプレッシャーが違う。一樹自身の時は受かっても落ちてもどっちでもいい気持ちだった。落ちたら、海外に出て音楽をしたらいいと思っていた。ただ日本の高校生だったので、そのまま国内の大学に行ってみたいと思っていた。

 試験官はどの人も意地悪そうに見える。少しのミスでも見逃さないという顔付きだ。
 それに一樹はコンクール等の受賞歴は空白だった。
 音大に行く前にすでに国内、稀に国外コンクールで名を馳せている強者たちが受験生に多くいる。そして希望する音大の先生に何らかの形で師事していることもあるので、ある意味、確認作業のような試験であったりする。
「何者だ」と言った目で見られているのが分かる。
 その上、この受験した大学は高校から音楽科があるので、外部受験は本当に厳しい。その厳しい先生方に一礼をすると、一樹はピアノの前に座った。
(落ちても…いいか)と思ったけれど、演奏することにした。
 試験とはいえピアノを弾くのだから、演奏しようと思った。一樹はピアノは祖母に教えてもらい、その祖母の先生だというドイツの先生のところに長期休暇は習いに行ったりしていた。学校は一般的な普通科で夏休みに海外のピアノの講習会に参加していたから、国内のコンクールを受けようと思ったことがなかった。だから自分が日本で通用するのかさえ分からない。

 試験を終えて、一礼して顔を上げると、厳しい目をしていた試験官はいない。みんな驚いた顔をしていた。あまりにも違い過ぎたのだろうか、と思って、部屋を出た。受験生も見たことのない一樹をじろじろと眺めている。受験生同士はコンクールで顔見知りなのかもしれない。アウェーな空気を感じながら試験会場を出た。

 主席で受かったとは知らずに入学式に向かった。入学式で新入生挨拶をしたのは綺麗な女学生だった。高校からの内部進学生だと後から知ったが、あまりの美しさに一樹は一目惚れをした。ピアノもトップクラスの腕前で、美貌の女学生。一樹は近づきたかったが、どういうわけだか声を掛ける前から嫌われていた。
「桜木くん」と他の女性からは気楽に声をかけられるのに、お目当ての人は声をかけようとすると、顔をあからさまに背けて、去っていく。

 練習室から漏れる音を聞きながら、「綺麗な人は音も綺麗だな」と思った。
 でも一樹が海外の講習会でやった曲を練習していたので、これ幸いと声をかけた。手には使い込んだ楽譜を持っている。ピアノが上手だと褒めたのに露骨に嫌な顔を見せられた。持てるものはなんでも使おうと一樹は思っていたので、海外で教えてもらった指示を書き込んだ楽譜を渡した。
「よかったら、使って」
「え? いいの?」と驚いたような顔で受け取られた。

 こんなに人を好きになることが自分に起こるなんて思ってもみなかった。あらゆる手を使ってでも彼女を手に入れたい。初めての強い感情に戸惑ったけれど、一樹自身止められなかった。
 翌日、お目当ての彼女から声をかけられた。
「意外と努力家だったのね」
 初めてちゃんと目が合った瞬間だった。

 黒い瞳、長い艶やかな髪、落ち着いた仕草。何もかも綺麗だった。そして同じ人に二度目の一目惚れした、と自覚した。もう何がなんでも手に入れなくては、と一樹はそう思った。例え、彼女に恋人がいたとしても。
 彼女は一樹の経歴に興味を持ったようだった。普通科の学校に通いながら長期休暇に海外でピアノの講習会に参加していた、と言うと、納得してくれたようだった。
「だからそんなにピアノが上手なのね。私…、私より上手いのに今までどこでも見たことがなかったから…ちょっと声かけにくくて」
「そうなんだ。みんな、ほぼ知り合い?」
「そうね。同じ高校の人はもちろん、他校からの人も、大体、コンクールで会ってるから。小さい時からずっと勝ち抜いてきた人たちはほぼ同じメンバーなのよ」
「へぇ。大変なんだね」
他人(よそ)ごとなのね」
「コンクールとか…正直、興味なくて」と一樹は本音を言ってしまった。
 ただ音大に来ている人たちは相当な努力をしてコンクールに向かっている。努力をした末、不本意な結果を見ることだってあるだろう。それでも日々、研鑽し続けているのだから、それをあっさり「興味ない」と言ってしまうのは反感を買う。相手が固まったのを見て、流石にまずいことを言ったことに気がついた。
「あ…いや。ごめん。その…」
 すると沙希は笑い出した。
「じゃあ、何のために音楽してるの? 変わった人なのね」
「…そうかな? 音楽は…何のためとかそういうんじゃなくて。むしろ…知りたくて。音楽家が作った世界について…」
「そうなんだ…。私…そんなこと考えたこともなかった。毎日、毎日…練習に追われて」
「今度、一緒に弾かない? 良かったらだけど」
「え?」
 彼女の瞳が抗えないように揺れた。
 後一息。そんな風に思った。
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