第2話 雪の日と暖かい冬

文字数 2,454文字

 随分、一人暮らしをして慣れたつもりだったが、桜がいなくなると一軒家は広くて、寒さを感じる。横で寝ていてくれた桜の温もりがたまらなく恋しい。

「一樹さん、そっちに行っていいですか?」
 そう聞いてくれたことが嬉しくて、一日でも早く来ないか、と一樹は思っていた。ピアノの練習、大学でのレッスン、ラジオ局の仕事、たまに友達の山崎と飲んで帰ってくる。今までと同じルーティーンをこなしながらも、もう二度と一人にはなれないのではないかと思うほど、胸が苦しくなる。
 冬の朝日を見ても、夜の星を見ても桜が側にいないことばかり考えてしまう。
 だから来てくれると聞いて、本当に嬉しかった。

 一緒にドイツについて来てくれただけでも嬉しかったのに、もうこれからはずっと同じ家で暮らしてくれるというのは幸せ以外何物でもない、と一樹は浮かれていた。

 その日は雪が降り始めて、薄く積もった日だった。一樹は時計を見て、東京駅まで向かった。
 大雪になってしまうと、電車が止まってしまう。桜がこっちに来て、住んでくれると言うのだ。駅まで迎えに行くまでに雪が少しずつ大きくなる。こんな雪の日でも大勢の人が行き交う街を電車から眺めた。妻が死んだと慌てて戻った日は冬だと言うのに暖かい日だった。
 出発地のドイツは大雪で飛行機が飛ばなかったから、日本に着いた時は不思議な気持ちだった。到着が遅れたせいで、妻の葬儀は何もかも終わっていた。

 あの日から一樹は死んだように暮らしていた。

 それを変えてくれたのが桜だった。誰とも恋に落ちないつもりだった。桜も傷ついていたのに、笑顔で側にいてくれた。少しずつ癒されていったから、桜を幸せにしたいと思った。雪はどんどん積もっていく。東京駅に着くと、どの電車も遅れていた。
「一樹さん、ゆっくり動いてるので、少し遅くなるみたいです。どこかで待っていてくださいね」とメッセージが届く。
「会えるのを楽しみに待ってる」と返事を書いて、近くのカフェに入った。
 コーヒーを注文して席に座る。雪のせいか平日なのに混んでいた。
 しばらくすると、桜から電車の中で食べたお弁当の写真が送られてきた。冷たくても美味しく食べられる工夫がされていてすごい、とメッセージも後から届いた。
「着いたら、何食べたい?」と送ってみる。
「今、食べたばっかりです。でも夜は…今日は寒いからシチューにしましょうか?」と返事が来る。
「今日は疲れてるから…作らなくていいよ」と送信すると、ハムスターが両手を上げて喜んでいるスタンプが送られて来て、思わず軽く笑ってしまった。

「桜木さんじゃないですか」と突然声をかけられて、一樹は顔を上げる。
 見た記憶があるが、誰だか思い出せずにいると「ひどいなぁ」と言われる。
「フリーライターの戸山です」と挨拶されて、思い出した。
「…あぁ」
「色々あったのに覚えてくれてないのは寂しいなぁ」と戸山がボヤく。
「今日は?」
「いや、別に桜木さんをつけてたわけじゃないですよ。でももっともっと有名になったら、追いかけるかも知れませんけどね」と嫌らしい笑い方をする。
「追いかけてもらうことないよ」
「ちょっと相席、いいですか?」と言われた。
 断りたかったが、満席なのだろう、と一樹は仕方なく頷いた。
「…奥さんのこと…。すみませんでした」
「え?」
 戸山が一樹の亡くなった妻のことを妻の親族側から頼まれて、有る事無い事を書いたことがあった。
「もっと公平に…取材するべきでした」と言って頭を下げられてしまう。
「いや…。あれは…僕にも責任があるから」
「…あの事件の時も、記事を書いたのは俺ですから。面白おかしい事件の方がウケるって言うだけで。本当のことを見ようともしなくて。毎日、毎日、人が欲しがっているゴシップを探して…。真実であろうが、嘘であろうが、人が欲しそうな記事を書いて…僕はあなたを殺したようなもんだ、と思ったんです。ピアニストとしての時間を奪ってしまってすみませんでした」
「別に…」と言って、一樹は戸惑った。

 一樹を面白おかしく書いた記事がなければ、当時、華やかな舞台に上がっていたとは思えなかったからだ。妻が知らない大学生との心中したという事件は大きなショックを与え、悲しみよりも何よりも、何も考えることができず、周りの罵声も哀れみも何も一樹には届かなかった。
「…あなたは何も悪くないですよ。仕事…しただけで」
「…そんな」と戸山は驚いたような顔をする。
「僕が…自分でピアノを人前で弾かなかっただけですから」

 あの時、一樹は自分が何のためにここにいるのか、葬儀にも出れずに、暖かい冬の光を感じながら、空港で立ち尽くしていたのを覚えている。喪主は妻の両親が務めたようだった。両親からは顔を見たくないと思われていたようで、葬儀も一樹を待たずして終わらせてしまった。
「そんな…自己完結しないでくださいよ」と戸山は運ばれてきたコーヒーに口をつける。
「妻のことは…自分が悪かったんです」
「自分だけが…ってことはないでしょう。奥さんにだって…」と言って、戸山は口をつぐんだ。
 いくら反省しようが、後悔しようが、一樹の妻が生き返ることはない。一樹はずっとその事件を背負っていたのだと分かった。
「…あの彼女は元気にしてるんですか? 塩撒いてくれた人です」
「あぁ…。これから一緒に暮らそうと思ってくれて」
「よかったです。あなたも…幸せになる権利がありますからね。…もう充分じゃないですか」と戸山が初めていい顔を見せた。

 幸せになる権利…。充分な後悔。本当にそうなのか一樹には分からない。でももう自分のことで桜を不安にさせたくはなかった。目の前にいるライターが「お先に失礼します」と言って、席を立つ。一樹はしばらくここで時間を過ごしながら、昔のことよりこれからのことを考えることに決めた。

「やっと着きましたー。改札に向かいますね」とメッセージが届く。
 そして「すごい雪」と雪だるまのスタンプが送られてくる。
 目を丸くして、でも楽しそうな桜の笑顔が浮かんできた。
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