第２７話　母との時間

　母と近くの神社に式を申し込みに行く。いつも遊んでいた場所だった。友達ともいたし、一人でも行った。鳥居までの階段を上ると、さわさわと風で木が揺れる音がする。
「あぁ、神様がきてるわねぇ」と母が言う。
「そうなの？」
「きっと小さい頃から見ていたあなたが来たのがわかったのかもね」
「…そうかな」と桜が空を見上げたら、ふわっと風が優しく吹いた。
　空が青い。
「東京はねぇ…。寒いの。人もいっぱいなんだけど…」と桜は言った。
「そうなの。雪も降るみたいだしねぇ」
　寒い夜に一人で家に帰っている一樹のことを思うと、胸がきゅっと締まった。
「うん。早く一樹さんのところに帰りたいなぁ」
「それ、お父さんの前で言っちゃだめよ」と母が笑った。
　母はお宮参り、七五三、十三詣りをここでしたことを思い出した。小さな赤ちゃんを手にした不安と喜びの日、よちよち歩きの桜に着物を着せて、歩いたことが鮮やかに思い出された。
「本当に…子育てって長いようであっという間だわ」
「え？」
「桜が七五三で日本髪結って、七歳の時だけど…。すごく不機嫌な顔で写真に収まってるの。髪の毛が痛かったのかしらね。でも千歳飴もらったらね、すぐに笑顔になって…」
「もう。私、本当に食べ物ばっかり…」と桜は自分で恥ずかしくなる。
　でも長い千歳飴をもらえたのが嬉しかったのを覚えている。
「長生きしますように。健康で育ちますようにって…お願い叶えてくれて、感謝しないとね」
「お母さん…ありがとう。今まで、優しくしてくれて」
「…そんな。お母さん、もっと色々してあげたかった。今更だけど…」
　少し鼻声になって、母は手で目の端を拭う。そんな母を見ると、桜も少し切なくなった。命を与えてくれた母親と別れる日が来るなんて思ってもみなかった。社務所で係の人にお願いをする。
「あらー、桜ちゃん、結婚するの？」と見慣れた社務所のおばさんが声をかけてくれる。
　昔からずっとここで働いてるみたいだった。籍は入れたと桜は言う。
「えぇ。東京の人だから…。式だけこちらで…」と母は嬉しそうに笑いながら言う。
「まぁまぁ、嬉しいわ。いつもここで遊んでたもんねぇ。狛犬に話しかけたりして」
　桜は恥ずかしくて笑って誤魔化した。
「でも…お母さんも寂しくなるわねぇ」
「ええ。本当に。こんなに早くお嫁に行くなんて思ってなかったから…」
「一人っ子だしねぇ」と二人でしみじみ話始めた。
　桜は久しぶりに境内をゆっくり歩くことにする。小さい頃、広く感じた場所は思っていたより狭く感じる。お稲荷さんのところにも行って、お賽銭を入れる。桜はお稲荷さんにも話しかけていたのを思い出した。
「結婚しました。夫…一樹さんを連れてきますね」と桜は呟きながら恥ずかしくなった。
（夫…って言っちゃった）
　カサカサと葉がなる音がしたので、ふと横を振り向くと、雑木林野中に一瞬、男の子が見えた。昔、祭りで父親とはぐれた時に会った子と同じように見えた。
「あ…」
　一瞬で姿はもう見えなくなった。もしあの時会った子だったら、もっと成長していなければおかしいのに、あの時と同じ姿だった。
「あ、あの時はありがとう…。私、結婚したの」と桜は小さな声で言ってみた。
　聞いているか聞いていないか、一体、誰だったのか、あるいは何者だったのか分からないが、桜は言ってみる。
「桜ー」と母に呼ばれて、慌てて戻った。

　日付も決めたので、レンタル衣装のお店に向かうことにした。レンタル衣装の店は街中にあって、タクシーで向かった。桜は白無垢を着ようと思っていたので、すぐに打ち合わせも終わる。一樹の和装も決める。
「はぁ…楽しみだわ。写真くらい撮りなさいよ」と母が言う。
　そう言うわけで急遽写真屋さんを紹介してもらうことになった。着々と予定をこなすと、昼を過ぎていた。
「忙しい時間なのに…」と桜が言うと、「良いのよ。お父さん…。すごく動いてないと、だめなのよ。ショックで。まだ…。桜が結婚したこと…。まぁ…私も寂しいけど」と母は寂しそうに笑う。
「お母さん」
「結婚したって…私の子には変わりないんだけどね」
「うん。そうだよ。赤ちゃんできたら、お手伝いしてね」
「そうね。楽しみにしなくちゃね。せっかく街まで来たから、美味しいもの食べて帰ろう」と母は笑う。
「うん。お母さん、本当にありがとう」
「何よー。当たり前じゃないの。こんなこと…」
「ううん。今まで本当に…」
「やだー。泣かせないでー」と母は小走りに駅ビル方に早歩きする。
　母の背中が小さくなる。昔、おんぶされていた記憶が今でもある。母の優しい匂いと、油の匂いと…安心していた自分。背中は心地いい温もりが気持ちよくて、そして幸せだった。
　慌てて桜はその背中を追った。