第18話 ずるい

文字数 1,967文字

 驚いたのは桜だけだったようで、学の後輩はぼんやりと立っている。顔色が悪そうだったが、桜は無視をして、家に戻ろうとした。
「桜さん。…ご結婚されたんですね。学先輩を置いて」と言われた。
「…はい」と言って、振り返る。
「私から…学先輩を奪って、幸せになるんですか?」
 学はこの子と浮気したのだろうか、と少し考えたが、もうそれはどうでもいいことだった。
「学を奪ったっていうのはちょっとよく分からないけど…。私は幸せになります」と桜ははっきりと言った。
「どうして?」
「どうして?」と桜が聞き返す。
 桜のポケットには一樹からもらったお金がそのまま入っていた。
「どこかお話するところに行きましょうか? それともお帰りくださいますか?」と桜は言った。
「話…します」
 別に聞きたい話でもないが、桜は駅に向かった。そのまま帰って欲しいというのもあったし、本当にそのまま髪を切りに行ってもいいと思った。
「じゃあ…鍵を閉めたりするので…駅前のカフェで待っていてください」と言って、桜は家に戻った。

 今更話を聞いたとしても何も変わらない。事故で亡くなった学が蘇ることもない。桜は素早く着替えて、荷物を持ってコートを羽織った。家を出ると、もう後輩はいなかった。駅までの間に、友達の佳に連絡を入れる。佳は美容室で働いていた。今日、空いてる時間があれば予約を入れようと思ったのだ。別に今日空いてなかったら、別にいい、とメッセージを送っておいた。

 駅前のカフェに行く。セルフサービスでミルクティを頼んでいると、奥に座っている後輩を見つけた。一体、彼女の話を聞いて、どうしたらいいのだろうとは思う。でも少し気がおかしくなっているかも知れない。気をつけようと、鞄の持ち手を肩にかけて、ミルクティを運ぶ。
「お待たせ…。話を聞くけど…何も私がしてあげられることはないと思うわ」と最初に断った。
「…私、学先輩が好きでした。好きで、好きで…。でも振り向いてもらえなくて。それでもいいと思って、私…。お願いして…抱いてもらいました。それで子供ができて…」
「…避妊は?」
「…それは」
 避妊具も完全ではないと思いつつ、確認したかった。
「避妊してもできたの?」
 避妊具に細工をしたという。驚いて目を開けてしまう。
「きっと…そうしたら私のこと選んでくれると思って」
「…それは赤ちゃんに失礼じゃない? そんなために…」
「そうしてでも欲しかったんです」
 その強い思いに桜は何も言い返せなかった。学からの連絡がなかった時期、きっと色々揉めていたのかも知れない…と初めて何だか学の気持ちが分かった気がする。言ってくれれば…と思ったが、言ってたら許せただろうか、と桜は自分に問いかけた。
「それなのに…私は赤ちゃんも…学先輩も…失くしてしまって」
 持って行き場のない気持ちを学の実家にも持って行き、そして元彼女である桜のところまで来たのだろう、と理解した。
「…そう」と桜は冷たい声で言った。
 正直、自業自得だ、と思ったからだ。
「桜さんは何もかも欲しいもの手にして…。どうして? 私ばっかり」
「それは…あなたが選択したことじゃない。私は学と別れたし…。学が何をどう考えてたのかなんて、知らないし」
「先輩は…ずっとあなたのこと好きだったんです」と後輩に言われた。
 そうかも知れない。でもそれは本当なのか分からない。
「あなたのことだって、好きだったかも。それが同情だとしても…愛なんじゃない? 彼があなたを抱いたんだから」
 驚いたような顔をした。
「でもそれは私にとって、裏切り以上の何でもないの」と桜はきっぱり言った。
「それでも…最終的にはあなたのところへ行ったんだから」と呟いて、後輩は泣き出してしまった。
「…最終って…あなたと浮気した時点が最終で、そこから先は…もう終わってるの」
「ひどい」と言って泣き続ける。
 十分ほど、黙って、見ていた。周りの席からの視線を感じてはいたが、どうすることもできない。携帯に佳から一時からの予約がキャンセルになったから、今日行けるというメッセージが入る。
「私…そろそろ行かないと」と声をかけた。
「…どうして学先輩はあなたを忘れてくれなかったのかな…」
 桜にもそれは分からない。どうして学が自分を好きだったのか。一体、何を考えていたのか。
「じゃあ…。これで」と桜は立ち上がった。

 学が生きていれば、また彼女も違ったのかも知れない、と桜は思った。一樹がずっと奥さんのことを心の中で後悔している気持ちが分かる。学も桜を愛してた? それとも後輩を? 分からないことを考えたって仕方がないことだ、と桜はため息をついて、カフェを出た。頼んだミルクティを一口も飲んでいないことに食器返却口で気がつく。
「ずるい」
 誰に対して言いたかったのか分からないけれど、心のそこからぽろっと口に出た。
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