第4話 後悔と雪合戦

文字数 2,860文字

 白い朝日がカーテンの隙間から見えた。さっきから起きていたけれど、ぐっすり眠り込んでいる桜を起こすのがかわいそうな気がしたけれど、そろそろと思って声をかける。
「桜…おはよう」
「一樹さん? 学校?」と言って、瞼が開かれる。
 明るい瞳に自分が映り込んだのを一樹はじっと見る。
「雪のおかげで…休校になったよ。電車が動かないみたいで」と携帯に連絡が来ていたことを教える。
「そうなの? そんなに積もったの?」と言って、ベッドがから降りて、窓の近くまで行こうとすると、一樹が抱き寄せた。
「そんな格好で…。ちょっと…何か着て」と一樹がベッドの中を探す。
「パジャマ…どこ行ったの?」と桜も探そうとしたけれど、一樹はベッドに押し込めた。
「その姿でうろうろしない」
 桜は何だか複雑な気分になって、ベッドのなかに入った。そして「あった」と言って、パジャマの上をベッドの中で丸くなっているのを取り出す。
「ほら、着て」
「私の…が…見るに…耐えないとか…ですか」と手を伸ばして言う。
 それで膨れっ面している理由が分かった。
「あ…そうじゃなくて…。反対だから」と膨れっ面の桜に頭からパジャマを被せる。
「反対?」
「そう」と言って、パジャマの上から抱きしめる。
「じゃあ…。一樹さんも…早く着てください」と桜は言って、でもその素肌にキスをした。
「こら」と言いながら、一樹は髪を撫でる。
 桜は幸せで仕方がなかった。その後、二人で並んで窓から真っ白になった景色を眺めた。

 その日はお歳暮のハムが残っていたので、それをパスタの具にして食べることにした。出かけるにしては雪がひどくて大変だった。午後に桜が表に出て頑張って雪だるまを作っていたけれど、手が痛い、と言ってすぐに戻ってきた。
「手伝おうか」と一樹は言ったが、「ピアニストにそんなことさせられません」と言って、今度は台所用のゴム手袋をはめて、また出て行く。
 ピアノの練習をしていると、また戻ってきた。
「今度はどうしたの?」
「耳が痛くて…。マフラー取りにきました」と言いながらお湯を沸かしている。
 すっかり鼻も赤くて、髪の毛が雪に濡れてしっとりしている。
「僕もコーヒー飲もうかな」と言って、立ってキッチンに行った。
「あ、用意しますね」と言って、コップを二つ並べる。
 たったそれだけのことで、一樹の胸が弾んだ。二つ並んだコップを見ただけなのに。
「桜…。大学辞めるの知ってるよね?」
「…はい。ドイツ行くんですよね?」と言って、冷蔵庫を開けてコーヒーの粉を探している。
「だから…また一緒に来て欲しくて。それでビザとか色々申請しなきゃだし…。早めに入籍してもいいかな?」
「はい。にゅ…せき。入籍!」と大きな音を立てて、冷蔵庫の扉を閉める。
「配偶者ビザを取らないと…桜は三ヶ月しかいれないから」
 冷蔵庫の前で固まっている桜を一樹は後ろから抱きしめた。体がすっかり冷え切っている。
「桜木桜になってください」
 冷えて痛いと言っていた耳に唇をつけた。凍っているように冷たい。桜の手がゆっくり一樹の手を掴む。どこもかしこも冷たい。
「…はい」
 寒さで震えているのか、桜の体は小さく震えていた。
「よかった」と一樹は安堵の一息を吐く。
「え?」と桜が思わず振り返った。
「昨日はあんなこと言ってくれたけど…結婚ってまた違うのかなとか…色々考えて不安になった」
 すると頰を膨らませて、桜は「そんな訳ないじゃないですか」と言う。
「あ、でも赤ちゃんはちょっと待って欲しいんだけど。まだどこを拠点にするとか考えてないから…。落ち着いてからでもいい? 移動が多かったら桜の負担にもなるし」
 桜は何か言いたそうな顔で一樹を見る。
「何?」
「だから…昨日…っていうか、今朝もですけど…避妊したんですね? でもできちゃったらどうするんですか?」
「それは…そうなったら、ドイツ行きやめて、日本でピアノの先生して頑張る
 そんなことを言う一樹を見て、桜は思わず笑ってしまった。
「もしそうなったら、一樹さん一人でドイツ行ってください。私は日本で実家に帰って子育てします」と言った。
「え? 実家に帰る…って」と青ざめた顔をする。
「里帰りです。お別れじゃないです。あ、お湯が沸きましたよ」と桜は一樹の体を軽く押した。

 コーヒーを淹れながら、一樹は妻が子供を欲しがった時のことを思い出していた。あの時はこんなに幸せな気分じゃなかった。ただただ悲しいだけだった。それが申し訳なく感じる。体の線が細かった妻は極度の体重制限をしていて、食べるものもスープとサラダだけだったから、女性としての機能が止まっていたようだった。だから子供の話を妻から持ちかけられたのに、その後、すぐに否定的な内容を言われた時はどうしたらいいのか分からなかった。
「月経…ないの」と言った。
 一樹はちょうど忙しくなってきた時期だったから、演奏活動に力を入れたくて、子供はまだ先だと考えていた。
「いいよ。今は…。それより体、大丈夫? 病院行く?」
 ゆっくり首を横に振る妻を無理にでも病院に連れて行ったら、変わっていただろうか、とふと思った。

「一樹さん」と桜に声をかけられる。
「え?」
「コーヒー、溢れてますよ」
「あ…。ぼおっとしてた」と慌てていると、横から布巾でさっと拭かれた。
「何か、悲しいこと、考えてました?」と桜の丸い目が覗き込む。
「…あ。うん。少し」
「聞いていい話なら、聞きますよ。言いたくないなら、いいです」と桜は一樹の手を握った。
「…。う…ん。まだ後悔してるみたいだ」
「奥さんのことですよね?」と桜は聞かなくても分かっていたように言った。
「そうなんだ。幸せの…反動かな」と言うと、桜は少し悲しそうに笑って、
「じゃあ、ピアニストですけど、コーヒー飲んだら、雪合戦でもしませんか? たまには頭を空っぽにしましょう」と言った。
「雪だるまは?」
「後で作ります」

 結局、溢れたコーヒーはそのままに、昔桜が落ちていた裏庭に二人で出て、そのまま雪合戦をした。桜が雪玉を作るよりも一樹が早く作って、投げてくるので、少しも桜は投げられない。
「もー、五秒待ってください。一樹さんの手、大きいんですから」と言って、慌てて雪玉を作る。 
 一樹は柔らかく投げるから当たっても痛くないのだが、桜は一生懸命投げても少しも当たらない。
「的は大きいのに」と急いで雪玉を作る。
 手は冷たいのに、息が切れそうで、額は少し汗ばんだ。
「少しも当たらない」と腹を立てて、雪玉を握りしめる。
 投げようとしたら、少しも逃げずに立っている一樹がいるから、桜は腹が立って、隣接している取り壊し予定のアパートの自分が落ちたベランダに向かって雪玉を投げた。雪玉はベランダまで届かず、弧を描いて手前で落ちた。それを見届けると一樹に突進した。
 どん、とぶつかっても少しも倒れないし、抱き止められる。
「もう…いいんです。後悔なんてしなくて」と桜は言ったが、後悔が終わらないことを知っていた。
 死んでしまった人は永遠だな、と桜は思いながら顔を一樹の体に埋めた。
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