第11話 ずっと変わらず

文字数 1,656文字

 最終学年。沙希が大学へ来なくなった。その前から学校でも会えなくなっていた。一樹は去年、沙希には話せないまま、イギリスの音楽院を受験していた。入学許可も出て、手続きも済ませていたが、沙希が大学院へ行くなら、大学院へ進もうかと考えていた。しっかり話し合うこともなく、会えない日が続く。
 紗希の担当教授から声をかけられる。
「桜木君…」
「あ…こんにちは。あの…沙希は…」
「来ていないの。院を受けるって聞いてはいたんだけど…。桜木くんはどうするの?」
「僕は…イギリスの音大に手続してるんですけど…」
「あら、それはいいわね。…あなたはここでは向いてないと思うの。だから出た方がいいわ」
「…でも迷ってて」
「そうね。ただ彼女だって、あなたには頑張って欲しいと思ってるはずよ。まさか自分に合わされるなんて…そんなこと望んでもいないと思うわ。いい意味でプライド高いから…」
「…そう…ですか?」
「そうよ。私たちはこのまま二人ともがダメになるなんて見たくないの。私はどうにかして彼女を引っ張り上げるから、あなたはあなたの世界で頑張りなさい。頑張っていればいつかまた…演奏だって一緒にできるはずよ」と言ってくれる。
「分かりました」

 一樹はただ一緒にいたい…。それだけだった。でもそれが今はまだ上手く行かないだけで、時間を置いたらきっとまた前のように一緒になれる。そう思って、一樹は留学準備を進めた。何とか話したいと思って、沙希に電話をしても出てくれなかった。一樹は前期で大学を辞めることに決め、退学手続きを取った。八月にはイギリスに向かうことにした。
 そして自分が使ってきた楽譜を沙希にプレゼントするために選ぶ。いつか演奏するであろうその曲を、練習を終えた後に見るように、楽譜の最後にラブレターを残した。
「ずっと 変わらず愛してる」
 心からの気持ちだった。
 二人がどんな形になっても、この気持ちは変わらずに持っていられる…そう信じた。
 沙希の担当教授に楽譜を渡してくれるようにお願いしていると、「明日、大学に来るそうよ」とわざわざ連絡をくれた。

 五月と言うのに少し肌寒く朝からずっと雨が降っていた。延々と降り続け、今日一日、雨のカーテンを開けることはなさそうだった。小雨の降る中、待っていると、沙希がぼんやりと歩いてくる。美しい彼女は目が落ち窪んで、少しもやがかかっているような表情をしていた。一樹を見ると足を止めてくれる。
 時間と距離を置いてから、会おうと考えていたのに、顔を見ると、我慢ができない。どうにかして一緒にいられる道はないのか、と一樹はどうでもいい話をしながら、沙希を海外に誘った。 
 すると思いがけないことを沙希が言う。 
 「ピアノを辞めてついて行く」と言うのだった。 
 それがどう言うことか確認するために一樹は「結婚してくれるのか」と聞いてみた。
「奥さんになりたい」と言われて、一樹は胸が高鳴る。
 でも沙希の目から涙が溢れた。それですぐに本心じゃないと気づく。
「捨てたいの。私には無理なの。一樹みたいな…あんな音」
 沙希がそう言う一瞬手前で一樹は理由(わけ)が分かった。沙希がピアノを弾けなくなったのは自分のピアノが原因だった。そして口で言ったこととは裏腹に沙希はピアノを捨てられないから苦しんでいることも。 
 朝から音もなく雨が降り続けているせいか、気温は低い。沙希が細かく震えているのが分かる。
 沙希を助けてあげられない自分が唯一できることは手放すことだった。
「ピアノを弾かない君なんて興味がない」

 ひどい言葉で彼女を振った。
 一瞬、目を大きく見開いた瞳に絶望を浮かべた表情を忘れられない。

 愛してた。愛してる。

 でもだからこそ、彼女の道を叶えたかった。ピアノを弾かなくても、本当は側にいて欲しかった。ピアノを弾いている彼女も、弾かない彼女も、全て愛していた。
 小雨の中を走って逃げていく後ろ姿を眺めながら、もう二人で演奏するはないだろうとぼんやり思っていた。
 いつも去りゆく姿を眺める側なんだ、とため息をつく事を覚えた。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み