第38話 インターフォン

文字数 2,161文字

 土曜の朝、ご飯も食べて、一樹がピアノの練習をしようと思いつつ、桜にキスをして、しばらく離れ難くなっていた。ソファで桜の髪を指で掬いながらキスを繰り返す。桜の手が背中に回る。それがくすぐったくて、笑ってしまう。
「桜…」
 わざとなのか、かすかに触れるくらいなので、それがくすぐったい。
「一樹さん、練習」と言いつつも桜は自分からキスをする。
 一樹は覚悟を決めて、桜をソファにゆっくり倒す。首筋にキスをした時、インターフォンが鳴った。二人とも動きと息を止めたけれど、もう一度鳴る。ため息をついて、一樹が体を起こして、玄関に向かう。

「今日は」と若い男性の声がする。
 新聞の勧誘だろうか、と一樹は首を捻りながら玄関を開けると、そこにいたのは半分だけ血が同じの弟が立っていた。後から桜も玄関に出てきた。
「あの…お兄さんが、結婚されたと聞いて」とお祝いを持ってきてくれたようだった。
「そんないいのに…」と言ったが、受けとった。
「どうぞ。入ってください」と桜が言うと、その予定だったようで「お邪魔します」と言い出した。
 客用スリッパを出す。きちんと脱いだものを整えて上がってくる。
「お腹空いてないですか?」と桜が聞く。
「あ、少し」と言うので、桜はご飯をおにぎりにすることにした。
「僕の…弟。桜木春人(さくらぎはると)。こっちは妻の…桜」と紹介してくれた。
「初めまして。あの…会社員をしてます」と春人は頭を下げた。
「あ、初めまして。主婦です」と桜も頭を下げた。
 二十代後半なので、桜より年上だ。
「少々お待ちくださいね。私、ご飯用意しますので」と言って、桜は台所に向かった。

 あまり似ていない兄弟だとこっそり見ながら思う。春人は直毛で、少しだけ垂れ目なのが可愛い印象だった。おにぎりと味噌汁を手早く作る。後卵焼きだけ焼いて、お盆に乗せた。
「お待たせしました」
「すみません。突然押しかけてきて」
「いいえ」と桜は笑ったけれど、確かにタイミングはよくなかったかな、と思う。
「ドイツに行かれると聞いたので…。急いで来たんですけど、すみません」と恐縮される。
「どうぞ、召し上がってください」
「ご飯まで図々しく…」と言いながら、余程お腹が空いていたのかすぐに食べ始めた。
「お代わりできますからね」と言うと、嬉しそうに笑った。
 プレゼントが気になったので、開けていいか? と聞くと「ぜひ」と言われる。木箱を開けてみるとペアマグカップが入っていた。
「わぁ」と桜は思わず声を上げる。
 今まで適当にあるものを使っていたのだけれど、自分たちのペアマグカップがあると嬉しくなった。一樹も覗き込んで、綺麗なブルーとピンクの陶器のカップが並んでいるのを見た。
「素敵ー。今日から使いますね。ドイツにも持ってきます」と桜は本当に嬉しくなって、早速洗いに行った。
「…奥さん、可愛い人ですね」
「そうなんだ」とこんな話をするのがどこか気恥ずかしく感じる。
「あの…なんかずっと申し訳なく感じていて」
「え? 何が?」
「ずっと…僕だけが、家族と一緒で…。会社も…」
 一樹は一瞬、ぽかんとしたが、何を言ってるのかすぐに分かった。弟は実の母と父を暮らして、会社を継ぐことが決まっている。一樹は前妻の子供で、その母が蒸発した後は父の祖父母に育てられた。
「いや。君は君で大変だったと思うけど…。会社だって、好きな仕事じゃなかったら辛いだろうし…」
「僕は…何不自由なく暮らしたので」
「僕も不自由なかったよ。それに今…幸せだしね」と一樹は本当にしみじみ感じる。
 久しぶりに見る弟の顔が安心したような笑顔になった。もしかしたら会わない間に、一樹は何も思っていなかったけれど、向こうはずっと気にしていたのかもしれない。
「それは…何よりです。本当に。…奥さんのご飯、美味しいですね」
「そうなんだ。一生懸命作ってくれて、幸せになる」
「でも…会ってすぐに『お腹空いてないですか?』って聞くのが独特ですね」と笑う。
「うん。食べることが好きみたいで」と一樹も笑った。
「そういう人が側にいてくれて、いいなぁ」
「いないの?」
「まだ…ですね」と春人は少し寂しげに笑う。
 コーヒーと甘いバターの匂いがして、桜が何か作っているようだった。甘いマフィンとコーヒーが運ばれてきて、三人は結婚式の話や、ドイツに行くタイミングなど話た。春人が好きだというアニメの曲も一樹は演奏した。

 昼ご飯の時間を大きく回る頃、春人は帰って行った。
「一樹さんの弟さん、何だか可愛い感じの人ですね」と桜が言うので、思わず一樹は「え?」と聞き返す。
「優しい人って感じがします。お兄さんのためにこんなプレゼントを用意して」と桜はマグカップを大事そうに持ち上げた。
「今だから仲良くなれた気がする。小さい頃、一緒だったら…色々思うことはあっただろうし」
「じゃあ、よかったですね」と言って、桜は一樹にキスをした。
 朝のタイミングはよくなかったけど、みんなにとって、いい時間になってよかった、と桜は思った。一樹が抱き寄せてくれたけど、桜は「練習時間です」と言って、腕から抜ける。
「またピンポーンってなるかもしれないから」と笑って、カップを片付ける。
「そんなこと…」
 ピンポーンとタイミングよく鳴る。
「ほら」と桜がパスケースを拾い上げた。
 タイミングの悪い弟が忘れ物を取りにきた。
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