第55話 一途な想い

文字数 979文字

 山崎は何をどうしていいのか分からなくて、とりあえずケーキを買って帰った。でも考えたら、深夜帯だったので、葉子は寝ているだろうし、睦月だって、寝ているかもしれない時間だ。動揺しすぎだろ、と自分で自分に言ってみる。
 鍵を開けて、部屋に入る。睦月は起きていて、ヨガをしていた。
「ただいま」
「お帰りなさい」と言って、微笑みながら振り返る。
「あのさ…。ラジオの…」
「あ、聞いてたわ。驚いた?」と嬉しそうに笑う。

 ふと、若い頃の悪戯好きだった睦月を思い出した。ジーパンを履いて、見合いの場所にやってきた。そして妊娠中だと見合い相手にすぐに言う。とんでもないじゃじゃ馬だと思ったけれど、嫌いじゃなかった。でもまさか自分を好きになっているとは思わなかった。ずっと仲のいい友達だと、そういう関係で、夫婦でいるのだと思っていた。
「うん。びっくりした…」
「私もドキドキしたの」
「え?」
「だって…。嫌いだって言われちゃうかなって」
「嫌いだ…なんて」
「本当は好きな人いたでしょ?」
「え?」
 隠すのが下手だな、と睦月は笑った。
「他の人のこと好きだったかもしれないけど、それでも私は…好きだった」
 山崎はそんなことを思ってもらっていたとはつゆほど知らず、動揺しかしない。
「あ…ありがとう。あのケーキ…」
「今、食べる?」
「いや…いい」と気の利いた言葉一つでない自分がもどかしかった。
「じゃあ、冷蔵庫に入れるね」と言って、ケーキの箱を受け取る。
「あの…。俺で…良かった?」
「あなたが良かった」
 山崎は驚きで動けない。そんな山崎に睦月はキスをした。キスだって…もう何年もしていない。EDだからセックスはしたことがない不完全な夫婦だと思っていた。それでも仲良く夫婦であろうとしていた。
「今でも? 俺でいいの?」
「そう。あなたがいいの」
 申し訳ないという気持ちが山崎に溢れ出す。十数年一緒にいるのに、そんな気持ちに気づくことなく、毎日を送っていた。葉子がいたから続いた夫婦かも知れない、とどこかで思っていた。愛されてるなんて思いもしなかった。
「私じゃ…だめ?」
「む…つ…きさん…」と言って、山崎は睦月を抱きしめた。
「ケーキの箱」と言われて、二人の間にある小さな箱が少しへしゃげた。
 その夜、二人は初めて肌を触れ合った。セックスはできなかったが、それでもお互いの温もりを感じられて、安らぎを知った。
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