第17話 初朝

文字数 1,685文字

 ゆさゆさと小さな手が肩辺りを揺すっているので、一樹が目を開けると、桜は顔を覗き込んでいた。
「おはよう。…どうかした?」
「あの…ごめんなさい」
「ん? 何が? 今、何時?」と一樹はまだ暗い窓の方に視線を向けた。
「えっと…六時前です」
「うん? 早いね。まだ寝てていいよ」と一樹が言うと、桜は体を上に乗せて、一樹の耳元で「初夜…してません」と言った。
「え?」
「寝てしまいました」とそのまま顔を一樹の耳につける。
 スンスンと桜が息を吸っているようだ。
「…あ。昨日は疲れてたから」
 耳やら首筋辺りがこそばゆい。
「せっかく夫婦になったのに」と言いながらも匂いを嗅ぎ続けている。
「…別に気にしなくても、これから夫婦なんだし。っていうか、なんで匂ってるの?」
「…だって好きだからです」と顔を上げて覗き込んでくる。
 垂れてくる桜の髪の毛を一樹は手で押さえて、桜の顔を見る。真面目な顔をしているのがおかしくて思わず笑ってしまった。
「どうして一樹さんはいつも私を見て、笑うんですか?」
「それは…予想外に可愛いから」
 一樹にそう言われて、桜は思わず口を開けてしまった。
「まだ暗いから…初夜でもいいけど」と一樹が桜を引き寄せる。
「あ…」
「時間もあるし」と一樹が言うと、桜は腕を絡ませてきた。 
 まだ暗い朝だけど、こんな朝は幸せな朝だな、と一樹は思う。
 二人で迎える朝がこんなに幸せだとは思いもしなかった。初めて心の底から満たされる思いがする。ずっとどこか欠けていたような寂しさが埋められていく。
「桜…本当にありがとう」
「え? 私こそ…親切にしていただいて」と言うので、また一樹は笑った。
 冬の朝は遅い。その時間がこんなにも幸せだなんて思いもしなかった。
「一樹さん、笑いすぎです」と頬を膨らませながら、キスをしてくれる。
 そして顔を上げて、「好き過ぎて、どうしたらいいですか?」と言われた。
「それは…難しい質問だな。僕も同じ気持ちだから」
 桜は幸せな気持ちで抱きつきながら涙を零す。背中を優しく何度も往復する手を感じながら、朝が来なければいいのに、と思った。

 朝の準備を終えた一樹を玄関先で見送る。
「今日はラジオ局も行く予定だから…遅くなるし…。晩御飯はいらないから」
「はい」と言って、桜も靴を履いた。
 一樹が戸を開けずにじっと見ている。
「はい?」と桜は首を傾げた。
「桜は何する予定かなって思って」
「私は…えっと…。特にないです。お散歩でもしようかな」と言うので、一樹は仕事も何もかも放って帰りたくなる。
「じゃあ、綺麗になってきて」と言って、桜に美容院代を渡す。
「えぇ?」
「夫婦だし…」
「夫婦…ですけど…」
 そんなことをしていたら、時間が迫ってしまい、慌てて家を出ることになった。玄関を出ても、まだ一樹は振り返って、桜に言う。
「服買ってもいいから」
「え?」
「夫婦だし…」
「夫婦ですけど…。もう一樹さん、早く行かないと」
「じゃあ、行ってきます」
「行ってらっしゃい」と桜は玄関先で手を振った。
(夫を見送る自分…)と桜は自覚すると顔が熱くなる。
(本当に夫婦になったみたい…じゃなくて、なった)と思うと嬉し恥ずかしい思いで胸がいっぱいになった。
 近所の人に頭を下げると「おはようございます」と言われた。
「おはようございます」と挨拶を返すと、その人は近寄ってきた。
 玄関先の花に水をやっているようだったけど、興味深々でこっちを見ていた。じょうろ片手に話しかけてくる。
「ねぇ…。もしかして桜木さん…とご結婚されるの?」
「あ…。はい。昨日、籍を入れたばかりです。よろしくお願いします」
「あらー。おめでとう。良かったわぁ。ずっと一人だったから…。小さい頃から知ってるのよ」とその近所の人は一樹の話をし始めた。
 そしていかに孤独に暮らしていたかを散々聞かされて、話が延々と続いていたが、家から響く電話の音で中断された。慌てて、家に戻る姿を見ながら、桜は一樹の孤独が随分長いものだったと知った。
(幸せに…絶対にしてあげたい)と思いながら、桜も家の中に入ろうとした時、声をかけられた。
 振り返ると、学の後輩が立っていた。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み