第23話 愛してる

文字数 1,553文字

 翌日の日曜日、朝から一樹がピアノの練習をしているので、桜はのんびりサンドイッチを作っていた。そしてドイツ語を少し覚えようと初級ドイツ語会話の音声をイヤフォンをつけて聞いていた。
「Gluten Tag こんにちは」
「Guten Abend こんばんは」
「Danke ありがとう」
 ピアノの音が止まったので、桜はサンドイッチをお皿に乗せてテーブルに運んだ。
「一樹さん、お腹空いてないですか?」
「ありがとう」と微笑んでくれる。
 その笑顔が素敵すぎるので、桜は一樹に抱きついた。
「あ、ごめん。お腹空いてた?」と一樹が言う。
 どうも一樹には桜が常にお腹空いているというイメージがあるらしいのだが、もちろん今もそうなのだが、気持ちが少しも伝わっていない、と頬を膨らませる。
「一樹さん、ドイツ語…。愛してるってなんて言うんですか?」
「愛してる? Ich liebe dich」
「イッヒ リーベ ディ?」
「『dich』  Ich liebe dich」
「ディッヒ…イッヒ リーベ ディッヒ」と二、三回繰り返すと今度は一樹を見て言う。
「イッヒ リーベ ディッヒ」
 たどたどしい台詞だけれど、桜の一生懸命伝えようとする気持ちがダイレクトに響いて、胸が温かくなる。
「Ich dich auch」
「?」と顔に書いたような表情で見上げてくるので、思わず吹き出してしまう。
 不思議そうな顔を自分の胸に寄せて「僕も…っていう意味。ドイツ語で愛してるって言われたの初めてで…なんか嬉しい」と桜の髪を撫でる。
 胸に空いた空洞に少しずつ優しさが流れ込んでくるのが分かる。隙間に流れて、満たされていくのが分かる。
「こんなこと言うのは良くないかもしれないけど。あの日、ベランダから落ちてくれて…良かった」
「え?」
 桜が顔を見上げると幸せそうに微笑む一樹がいた。あの日、怪我をしたけれど…それが今日につながるのなら、怪我も悪くなかったのかなと思う。
「一樹さん、サンドイッチ…」
「コーヒー淹れるから」とキッチンに向かう。
 桜はその後をついて行く。
「座ってて」と一樹が言うと、相変わらず体を寄せて、くっついてくる。
「鬱陶しいですか?」
「全然。可愛い」
 お湯を沸かしながら、コーヒーをフィルターにセットする。
「一樹さん…」
「ん?」
「大好き過ぎて…どうしたらいいですか?」と真面目に言う。
「前も言ったけど…それは僕も同じだからわからない」と返事すると、さらに体をくっつけてくる。
「食べたら、ちょっと散歩してきます」
「一人で?」
「…だって一樹さん練習したいでしょ?」
「散歩くらいなら…全然いいけど」
「だって、散歩の後、ちょっとお茶したり…」
「ちょっとお茶くらいなら」
「ケーキ食べたり」
「いいよ」
 それから桜は困ったように「ちょっとデートしたくて」と言う。
「デート、いいね」
「だって…私、来週、実家に帰りますからね。結婚式の予約と…それから近くの料理屋さんでお食事して…って感じでいいですか?」
「うん。ごめんね。一緒に行けなくて」
「大丈夫です。お母さんと一緒に衣装決めたりするだけですから。一樹さんのも勝手に決めていいですか?」
「いいよ。和装するの…初めてなんだけど…似合うかな」
「似合いますよ。きっと」と桜は想像してすごく楽しみになる。
「春になるのが…初めて楽しみに感じる」
「え? そうなんですか?」
「うん。なんか…春は苦手で。ほら…クラス替えとかあるし…なんかいまだに緊張する季節なんだ」と一樹は言った。
「クラス替えで?」
「今でもそうだけど…そんなに馴染める方じゃなかったから」
「あ、お湯が沸きましたね」と言って、桜はコーヒーを淹れようとする。
「僕がするよ」と言って、一樹がコーヒーを淹れる。
 そしてサンドイッチを食べながら、一樹の小さい頃の話を聞いた。
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