第40話 さよならと月

文字数 2,186文字

 無事に入試も終わり、卒業演奏も終わった。何もかも終わって、ほっとしたかったが、謝恩会に出ることになっていた。持田先生に言われて、サプライズ演奏をすることになっている。ドラムとピアノだった。ドラムをこっそり運ぶのが大変で、一樹も手伝わさせられる。ピアノは会場にあって、卒業生たちが演奏するのだ。

 謝恩会で挨拶を聞いたり、生徒から手紙をもらったりした。沙希は生徒に囲まれている。
「先生ー。連弾してー」と言われて、生徒と演奏したりもした。
 しばらくすると会場が一斉に暗くなる。ごそごそと卒業生たちが動き始めて、突然、モーツアルトのメドレーを演奏し始めた。ピアノ科から始まり、四重奏、途中で声楽家の歌があって、最後は交響曲をアレンジして演奏した。
 みんなが集まって、練習したらしい。最後まで音楽を楽しんで演奏してくれるのなら、それが何よりだ、と一樹は思った。先生から拍手をもらって、生徒たちが喜んでいる姿を見ると、まだまだ幼く見える。持田先生から合図を送られて、一樹はピアノの前に座った。ビルエヴァンスの「枯葉」を引き出す。隅に隠していたドラムも持田先生によって動き始める。すると、さすが音大の先生だけあって、他の先生も生徒の楽器を借りて、それぞれ演奏し始める。完全に即興だった。
 一樹がここに来た時はまるでただの存在場所としてしかなかった。沙希に連れて来られて、生徒にピアノを教える。ただ息をしていただけだった。自分が上手く教えられなかったのも苦しかった。
 それでも、一つでも何か伝えることができていたのなら、と一樹は思う。 そしてもう辞めるという時になって、ようやく少し周りと打ち解けたような、と思って、持田先生を見ると、思い切り顔を逸らされた。
 演奏が終わって、生徒たちから盛大な拍手をもらった。一樹は大学を去るというので、サプライズで花束をもらう。本当はもっとできたことがあったんじゃないか、と今更後悔をする。
「桜木先生、気持ち悪い顔でこっちを見ないでください」と持田先生に言われた。
「え?」
「ピアノも上手くて、顔も良くて…、最近、結婚もされたそうで…。幸せなのは分かるけど、そんなにやけた顔されると、ちょっと。僕はあなたのこと、気に入らなかったですから。ずっと」
「そうなんですか?」
「そういうことも気がつかない坊ちゃんなところがそもそも腹立だしいんですよ。僕はちょい悪オヤジと言われて人気なのに。正反対のあなたの方が生徒からキャーキャー言われてるのも受け入れられません」と心底嫌そうに言った。
「それは…すみません」
「でも、もっと一緒に演奏はしたいと思いました。それに思ってたよりいい人みたいだから。僕よりも…ずっと。生徒に人気があるの分かります」
 そう言われると、一樹は胸が痛い。自分はそんなに生徒と向き合ってはいなかった。現に野口琳という一人の生徒を不幸にしてしまった。
「思ったよりは…ないですよ」
「そうですか」と言って、ニヤリと笑った。
 花束を抱えて、一樹は会場を出る。二次会に行く人が多い中、一樹は家に帰ることにした。いろんな生徒に声をかけられるが、一樹は沙希を探していた。生徒たちは二次会の会場へ向かうようで、ようやく解放される。
「一樹」と沙希に声をかけられる。
「あ、お疲れ様」と沙希を見た。
 白いコートを着た沙希は幾つになっても綺麗だった。
「帰るの?」
「うん。沙希は?」
「私はあと少しだけ…」
「そっか。色々…ありがとう」
 一樹がそう言うと、ふっと力が抜けたように沙希が微笑んだ。
「ここで働くことを誘ってよかったのかなって色々考えてたけど、結果は良かったみたいね」
「そう…かな。反省することが多くて」
 あのまま沙希と一緒にいれたら…と何度も考えた。それは叶わなかったけれど、沙希は一樹が苦しんでいる時、手を差し伸べてくれた。沙希の手だったから、掴んだと言ってもいい。他の人だったら、きっとここには来なかっただろう。
「今度は幸せになってね」
 本当は自分が沙希を幸せにしてあげたかった。そうできると思っていた。ずっと。
「君に会えて…よかった」
 沙希の目が大きく開く。
「…私も」と何とか返事をして「じゃあ元気でね」と手を振る。
「元気で」と一樹も手を振った。
 ずっと好きだった人の後ろ姿を見送った。あの時、走り去る姿は今も忘れられない。一緒にいることはできなかったけど、絆を感じられる関係になれてよかった、と一樹は思う。一樹は桜の待つ家に向かう。

 帰宅時間が遅くなったが、桜は起きていた。
「あれ? 一樹さん、二次会は行かなかったんですか?」
「うん。桜に早く会いたくて」と言うと、桜は飛びついて来た。
「お疲れ様でした」
「ありがとう」
 どんな気持ちで待っていたのか、少し考えるだけでも分かるから、優しく頭を撫でる。
「花束、大きいですね。花瓶…あります?」
「そうだね。大きいの…あるとは思うんだけど。今日はバケツでもいい?」
「はい」と言って、桜はバケツを取りに裏庭に行った。
 寒いだろう、と心配して、一樹も後から行くと、裏庭で空を眺めている桜がいた。
「月…」
「綺麗だね」
「はい」
「…桜。これからよろしくね」
「こちらこそ…です」と笑う桜が愛おしく感じる。
 静かな夜にバケツを持った桜と一樹を月が見ていた。新生活を始める前に、少し前までのことに別れを告げて、新しい時間と場所へ。
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