第29話 謎の女の正体

文字数 2,054文字

 翌日、大学にいる間に警察から連絡が来た。女の身元が分かったが、やっぱり音大とは全く関係のない大学の大学生だった。その女の名前を聞いても分からない。
「それで…何か話したんですか?」
「いや…それが何も。黙り込んで。ちょっと心神喪失のようなところもあるんで…。後、カッターナイフが鞄に入ってまして」
「カッターナイフ?」
「だから…まぁ、今しばらくこっちにいますけどね」
「はぁ…。待ち伏せしてたみたいなんで、通り魔ってわけではなさそうですけど」と一樹はため息をつきながら言う。
 桜がいなくて本当によかった。

 今から在校生の実技試験がある。一樹も審査員だ。今日はかつて教え子だった野口琳もいた。彼は一樹に憧れてこの大学に来たのだが、あまりにも変わり果てた姿に絶望して、一樹に襲い掛かったことがある。桜がそれに気づいて、なんとか収めようとしたが、結局担当が沙希に変わることになった。
 一樹がそこにいるのも分かっているが、少しも視線を向けずに演奏を始める。
 相変わらず正確極まりない演奏だったが、ほんの僅かだが、揺れた。それが少し彼らしさを見せる。沙希の指導で頑張ったんだと言うことが見える。正直、学校に来ないんじゃないかと思っていたが、戻ってきてくれてよかった、と一樹は思った。
 演奏を終えて、お辞儀をして去っていく。一樹は点数を書き込んだ。
 昼休憩に沙希に声をかけられる。
「結婚、おめでとう」
「あ…ありがとう」と少し恥ずかしくなる。
 沙希はにっこり笑いながら、可愛い紙袋を渡す。
「これ、奥さんに。可愛いクッキーの詰め合わせなの。なかなか買えないのよ」
「実家に帰ってるから、送っておくよ」
「そうなんだ」
「沙希…」
「何?」
「ありがとう」
 出会えた事、愛したこと、愛されたこと、一緒に過ごせた時間、傷つけた言葉、別れの後悔、全てに、一樹は感謝した。
「えー?」
「君に会えて…よかった」
 沙希の目が揺れる。
「私も…会えて…。一樹に恋して…よかった」
 ピアノが原因で別れたけれど、その分、ピアノに向き合うことができたから、堂々と顔を上げて微笑んだ。次こそはどうぞ幸せになって、と願いを込めて。ちらちらと寒い曇り空から白い雪が降り始める。
「今日も冷えるわね」と沙希は言った。

 一樹は家に帰って、ふと思い当たって、アパートの賃貸人の資料をめくった。予想通り、昨日家に来た女性と、桜の元カレは同じ大学だった。この前、桜が元カノが来たと言っていたことを覚えていたからだ。もしかすると本当に桜がいたら…とぞっとする。警察に電話をする。朝話した刑事はいなかったが、違う人に伝言を頼んでもらった。
「妻の…元カレの彼女かもしれません。ちょっと前にも来ていたと言ってました」
「あ、そうなんですね。分かりました。調べてみます」と言ってくれる。

 そうして一樹はシャワーを浴びる。桜がいないとお風呂に入るのも面倒くさくて、シャワーだけで済ませることが多かった。桜を刺そうとしたのだろうか、と考えると恐ろしくなる。逆恨みも甚だしいのだが、完全にあの時の女性は何を言っても響かない顔をしていた。心神喪失…。罪にも問われないだろうが…、と一樹はどうしたものか、ため息をついて、絶対、電話しない相手だが、電話をすることにした。久しぶりに聞く父の声だった。
「こんばんは」と挨拶される。
「こんばんは」と返しておいた。
「こんな夜中に何の用ですか?」
「…弁護士を紹介して欲しくて」
「弁護士? 何かしたの?」
 淡々とした会話をするのだけでも、嫌になってくる。それでも桜のためだから、経緯を話した。
「あ、桜ちゃんね。分かった。…結婚したんだ?」
「しました」
「幸せにね」
 機械的に言われたが、初めて心に響いた気がする。思わず言葉を失くした。
「桜ちゃんのためだから、ちゃんとした弁護士、行かせるから。都合のいい時間、メールに送っといて。今、メモとるの無理だから。それから…後、もっと頼っていいから」
「はい」とも「いいえ」とも言えずに、「分かりました」と言って、電話を切る。
 電話を切ってから「桜ちゃんって」と親しげに呼んでいること怒りが湧いてくる。
 文句を言おうかと思っていたところに桜から電話がかかってきた。
「一樹さん。お電話大丈夫ですか? 話し中だったので」
「ああ、今、終わったところで」
「そうなんですね。あの…あの女の人…もしかして…元カレの浮気相手かもって思って。セミロングの…って言っても…大体女性に多いですけど」
「そうかも。名前知ってる?」
「いいえ…」
「ちょっとおかしくなってたみたいだけど…。前もそんな感じだった?」
「思い込み激しいタイプそうでした」
 二人で話しながら、昨日の女は元カレの浮気相手に違いないという話になり、一樹は「当分、実家が安全かもね」と言った。
「あーあ。早く会いたいのに」と桜はため息をついた。
「うん。ごめん」
「我慢します。じゃあ、おやすみなさい」と桜は言った。
「桜…おやすみ」
 電話を切ると、部屋が広い気がして、寒さが一段と厳しく感じられた。
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