第35話 生きること

文字数 2,423文字

 バレンタインデーにチャリティーコンサートが行われる。桜は前の晩からチョコレート作りをしていて、もうその匂いだけでお腹いっぱいな気持ちになるのだけれど、せっかく作ってくれているので、楽しみにすることにしている。
 何より一生懸命作ってくれている桜が可愛い。
「ブラウニーのチョコレート掛けにしましたよー」と嬉しそうに笑う。
 そして一樹がいない間にピアノを練習しているのも知っている。ツェルニーの楽譜のコピーがリビングのテーブルに置かれていた。コピー譜には黒鍵の音符にオレンジ色が塗られている。
「今日は一樹さんの一大事の日ですから、頑張ってくださいね」と桜も一緒に行くので準備をしていた。
 チャリティーコンサートはラジオ局のロビーでポップスやアニメ曲など聴きやすい曲ばかり演奏するので、そんなに難しいことではない。
「でもこれで一躍有名になれますよ。子供から老人まで…」と桜が言うと、一樹は苦笑いする。
 特に有名になりたいわけでもないが桜のテンションが高いので、頷いておいた。桜は紙袋にブラウニーをたくさん詰めた。ラジオ局の人にいつもお世話になっているお礼に作ったのだった。
 スタジオに入ると、DJから早速話しかけられる。
「あ、いつもお世話になってます。これ」とブラウニーを渡した。
「こちらこそ。ところで桜木さんから聞きましたか?」
「あ、友達の…美容師なんですけど。アイドルオタクでも大丈夫ですか?」
「アイドル? 全然いいです。今度、セッテイングしてください」
「分かりました。都合聞いておきます」と桜はその場で佳に連絡しておいた。
「わー、これで俺にもようやく春が」と勝手に盛り上がっているので、多少不安になった。

 一樹が最終打ち合わせをしている間に、桜がブラウニーを配っていると、テレビで見たことのある女性アーティストが入ってきた。前も飛び入りで参加していたが、今回は最初から参加したい、と向こうから打診があったという。
「こんにちは。ねぇ、私も頂いていい?」と声をかけられる。
「あ、どうぞ。私…」
「知ってる。桜木さんの奥さんでしょ? 桜木さん、とっても嬉しそうだったもん」と言われた。
 実力派シンガーとして、テレビでもさばさばしているが、プライベートも同じなんだ、と桜は驚いた。そしてなぜか一樹と仲がいいのか結婚のことまで知っているとは思いもしなかった。確か、一緒にレコーディングしたとか聞いたことはある。
「今日は楽しみにしてるんだー。ぜひ近くで聞いてください」と頭を下げられた。
「いえいえ。こちらこそ、楽しみにしてます」と慌てて頭を下げる。
 世界が違う、とやっぱり桜は思った。いわゆるオーラがあるというのか、スターの雰囲気を感じられる。
「桜ちゃん」と呼ばれて振り向くと、葉子が来ていた。
「葉子ちゃん」と少しほっとして、そっちに歩く。
 葉子もチョコレートを作ってきたようで、二人で交換した。
「あの好きな人にあげたの?」と桜はこっそり聞いた。
「うん。ここに来る前に寄ってきたの」と嬉しそうに笑う。
 二人で話している間に時間がたって、本番前になった。ロビーは大勢の人たちが詰めかけていた。募金スタッフも忙しそうにしている。DJが軽快に挨拶をしている。桜と葉子はスタッフと同じような裏側の方で立ち見となった。
 シンガーが紹介されると会場は一瞬で湧く。
「もう一人のスペシャルゲストです」と言って、痩せている小学生の女の子を紹介した。
「昔、病院でこっそりラジオを聞いてくれているという男の子から手紙をもらいました。もう退院してしまって会えなくなったけれど…ラジオを聞いていたらというメッセージとリクエストをくれたんですね。そこでそのお母さんからご連絡を頂き増して…。今回、病気に打ち勝ったということで、遊びに来てくれましたー」と言うと、歓声が上がった。
 桜も驚いて思わず拍手をしてしまう。
「みなさん…。温かいメッセージありがとうございます。病院でいろんな出会いがありました。…おかげさまで元気です。まだ病気と闘っている人がたくさんいます。私みたいに…このラジオが届けばいいなって思ってます。本当にありがとうざいます。」と可愛らしい声で挨拶した。
 ラジオ局のロビーに拍手が鳴り響いた。
「では、初めの一曲目はこのチャリティーの応援ソングとして作られた『いつもそばに ずっと隣で』です。この曲はシンガーのMaiが作詞、そしてほぼ番組のレギュラーとなってるピアニストの桜木一樹さんが曲を作ってくれました。」とDJが紹介する。
 桜はそのことを知らなくて驚いた。ピアノの優しいアルペジオから始まる。シンガーは語りかけるように優しいメロディーに声を乗せていった。女の子もメロディに合わせて体を揺らしている。細い手足が闘病生活の厳しさを語っていた。それでも前向きに治療を終えた彼女は明るい笑顔でその場にいた。
 心から桜は拍手を送った。
 チャリティーコンサートは大盛況で終わった。
「桜さん」と人混みから声をかけられる。
「あ…芽依さん」と言うと、小さな花束を渡してくれた。
「素敵でした。また誘ってくださいね」と言う。
「ぜひ…。花束…ありがとうございます。でも私でいいんですか?」と聞くと、くすりと笑って「桜木さんに渡しても…きっと桜さんにお渡しになると思って」と言った。
「モンプチラパン」と優しい声がする。
「あ、じゃあ失礼しますね」と微笑んで鉄雄の方に向かう。
 ロビー出口には背の高い晴が赤ちゃんを抱っこして二人を待っているのが見える。不思議な家族だと思いながら、振り返る芽依に桜は手を振った。幸せは他人には分からない、と思いながら。
 葉子を探すとシンガーにサインをもらう列に並んでいた。お父さんの力を使えば、後でいくらでももらえるのだろうが、自分もきちんと並んでもらいたかったそうだった。誰も彼も当たり前に生きている。そのことがどれだけ幸せなのか、と桜は今日、改めて考えさせられた。
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