第12話 静かな雪

文字数 1,431文字

 なぜか今日は集中できない。ふと鍵盤から手を離して、ため息を吐く。ふと横を見ると、
「一樹さん」と寝ていたはずの桜が上半身を起こしていた。
「あ、うるさかった?」
「いいえ。一樹さんのピアノが素敵だから…。起きれました」
「ごめん…」
「もう。謝らないでください。私、起きたかったんです」と頰を膨らませる。
 そしてゆっくり一樹の方に手を伸ばす。かずきもその手をそっと掴むと柔らかくて、温かかった。にっこり笑って「後悔させません」と言う。
「後悔?」
「はい。…だって一樹さんは今までずっと後悔してきたから。もう十分です」
 もう片方の手を桜はさらに重ねて起き上がった。
「どうして…そんなこと…」と一樹が聞くと「なんとなく」と言って笑う。
 ふと自分より一回り以上、年下の桜なのに、不思議と癒されている気持ちになる。
「私はピアノ弾けないですけど…、でも絶対、後悔させません」と得意げな顔を向けてくる。
「ピアノ…教えようか?」と言ってから、一樹は「…いやでも…」と思い直す。
「駄目です。それしたら、一樹さん、早速後悔しちゃいそうだから」と桜が抱きついてきた。
「それは…間違いない…かな。でも…桜は何しても可愛いから。ピアノ弾いても、弾かなくても」
「ピアノは一人で練習します。バイエルは終わってるんですよ。昔、幼稚園の先生もいいなぁって思って、習いに行った事あるんですから」
「へぇ…。似合うと思う」
「でしょ? でも食べることに興味があって…。家政科行きました」
「知らなかった」
 そう思うと、桜のことそんなに知ってる訳ではないと一樹は思う。
「子供も大好きですよ。だから赤ちゃん欲しいなぁって思って。でも…一樹さんのいいタイミングにします。だって、今、子供できて、私が実家に帰ったら、また一樹さん寂しくなっちゃうでしょ?」
「なる。きっと…寂しくて死んでしまう」
「えー?」と言いながら、くすくす笑う。
「じゃあ、もう寝ようか」と一樹は桜を抱きしめながら言う。
「あ、歯磨きしてきますね」
「僕もまだしてない」

 二人で並んで歯磨きするのも、それだけで幸せな気持ちになる。桜は少し眠そうな顔をして、歯磨きを終えた。そしてごく当たり前のように二階に上がって、ベッドの中に入った。初めの頃はソファで寝ると言って聞かなかったのに…と一樹は思う。ベッドに入ると、そっと体をくっつけてくる。
「一樹さん。今日はおやすみなさい」
「おやすみ」
 そう言ってるのに、なんだか顔を擦り付けたりしてくる。
「桜? 眠たくないの?」
「眠いです。でもちょっとだけ」と言って、腕を巻き付けてきた。
 脇腹に頭をぐりぐり押し付けてくるので、こそばゆくなって、一樹は眠れない。
「桜。寝ないの?」
「寝ます」と言って、さらにぐりぐり。
「それ、されたら眠れないんだけど」と言うと、顔をあげる。
「もー、マーキングしてるんです」
「それ、全然マーキングにならないよ」と言って、一樹は桜を抱き寄せた。
「駄目です。今日は寝るんですから」
「さっきから、何?」
「眠たいのと、好きなのとで、もやもやしてるんです」
 確かに目は眠たそうにとろんとしている。
「分かった。好きにしなさい」と言って、一樹は桜の頭を抱えて、撫でた。
 しばらく撫でていると、最初は頭をぐりぐりしていたが、いつの間にか寝息に変わっていた。その小さな寝息を一樹も聞いているうちに眠りについた。穏やかな夜が訪れる。また夜に雪が降り出しているようだった。静かに、静かに、誰も起こさないように雪が降る。
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