第50話 消せない場所

文字数 2,302文字

 新しくボトルを下ろした山崎はたっぷり飲んで、酔っぱらって、タクシーで家まで帰る。これは一樹がいるから、安心して飲んだのだろうけれど、一樹は送る役目を桜を人質にされたから、するしかないな、と思った。
「桜木くん。俺…めっちゃ酔ってさー。あのハゲ、また俺に電話してきて…。むかついたから…何かひどいこと言ったような、言ってないような覚えてないんだけど」
「知りませんよ。外で電話してたから」
「ま、いっか」と言って、目を閉じる。
 一樹はため息をついた。好きあっていた同士が結婚できない辛さは知っていたからだ。人生はそんなに思い通りにならない。一樹は亡くなった妻を大切にできなかったのに、山崎は妻もその子供も大切にしている。暖かいところのある男だと知ってたから、あの辛い時に一緒にいられた、と思った。ママとの話は薄々そうじゃないかと思っていたけれど、初めてはっきり口に出されると、やっぱり気になってしまう。
 山崎が急に目を開けた。
「老けたな」
「え?」
「ママ…。昔はもっと肌もパーンと張って、綺麗だったのに…」
「知りませんけど…」
「まぁ、俺も老けた。髪も薄くなったし、顔も重力に引っ張られて、穏やかな顔になった」と自分で言っている。
「まだ…」
「そう言う場所あるでしょ?」
「え?」
「桜木くんも…桜ちゃん好きだろうけど、元の奥さん、元カノ、そういう場所が心に残ってるでしょ?」
 一樹は確かにその場所があることを否定できない。
「消せないんだよねぇ。消したくてもさ。…だからって、そっちが大きいわけじゃない。目の前の今の大切な人が一番、大きい。それは間違いじゃない」
 山崎はため息をついた。アルコールの匂いが車内に広がる。
「…女の人は消せるって言いますけどね」
「どうだろうね。まぁ、男よりそう言うところは潔いから。…いまだに、俺、もし二人だったらどうしてたかなぁって思うことはある。上司からの結婚の勧めを断って…。会社に居場所も無くなって…。二人でスナックやってたかなって」
 なんだか楽しげな顔をしている。
「でも今の生活は俺が選んだから…。妄想として時々楽しみつつ、目の前を大切に…毎日…」と眠り込んでしまった。
 タクシーは急に静かになる。
「いや。分かるなぁ。今の話」と運転手がいきなり話しかけてきた。
「え? あ、はあ」と一樹は曖昧な返事をすると、そこから山崎のアパートに着くまでずっと運転手の恋愛遍歴を聞かされた。
 一樹は適当に相槌を打ちながら、消せない場所について、考えた。
 酔った山崎をなんとか下ろして、インターフォンを鳴らす。すぐに睦月が出てくれた。
「あら、ごめんなさい。重たいのに」
「大丈夫です」と言って、なんとか引き摺って、エレベーターに乗せる。
「桜木くん…寂しい」とエレベーターの壁に寄りかかって言う。
「え?」
「早く帰ってきて」
 ドアが開いたので、また引き摺り下ろした。マンションの扉が開いて、睦月と桜が顔を出すのが見える。
「桜、帰ろう」と山崎を引き渡して、言った。
「はい。あ、お邪魔しました」
「タクシー待たせてるの?」と睦月が聞いた。
「ええ。すぐに戻るからって」
「じゃあ、仕方ないわね。お茶でも…って思ったけど」と睦月は山崎を玄関に倒れたまま、微笑んだ。
 少し複雑な気持ちになりながら、一樹は頭を下げる。
「一樹さんもお酒飲んだんですか?」
「匂う?」
「少し。お酒臭いです」
「ごめん」
「謝らないでください」と桜は言って、手を繋いできた。
 タクシーに乗ってまた恋愛遍歴を聞かされると思うと、新しいのを呼んで貰えば良かったかな、と思ったが、桜が乗ってきたせいか、黙って運転してくれた。その上、気を聞かせて、会話を来ていませんという意思表示か、ラジオを割と大音量でかけてくれる。
「楽しかった?」
「はい。色々聞きました。佳も…少し乗り気かなぁって。まだ分からないですけど。DJさんから聞きました?」
「あ、そうなんだ。良かった。すごく乗り気なのに、何もできないって言ってた」
「えー? なんか、モテそうだし、すごく女慣れしてそうなのに」
「…うーん。年の差で悩んでた」
「年の差?」
「その気持ちは分かるから」と言って、桜を見る。
 確かに、誰かに紹介されてたとしたら、付き合うことはなかったと思う。色々知る前にすごく可愛い良い子で終わっていた。
「そう…ですか。私は感じたことないですけど」と言うから驚いた。
「ないの?」
「ないですよ。一樹さんのこと、おじさんって思ったことないです」
 なかなかパンチのある言葉が出た。
「あ…。それは…良かった」
「じゃあ、一樹さんは私のこと、子供だって思ってますか?」
「…子供っていうか」と思わず口をつぐむ。
「あ、またハムスターって言うんでしょー」と頬を膨らませる。
「可愛いから」
「可愛いって」とちょっと怒った様子で、窓の外に顔を逸らす。
「桜」
 まだ怒ってるのか、顔を窓に向けたままだった。
「桜?」
「可愛いって…どれくらいですか?」
 膨れた顔がタクシーの窓に写っている。
「そうだなぁ…」
 ちらちらとこっちを見る視線も窓にしっかり写ってる。
「どれくらいか分からないくらい…」
 窓に映る視線が合った。
「愛してる」と口だけ動かした。
 桜が振り返った。
「誰よりも…」
「一番…ですか?」
「一番愛してる」と今度は声に出す。
 桜はそんなこと本当は聞きたくなかったけど、知りたかった。タクシーじゃなかったら、飛びついていた。
「私も…」
 そう言って、手を握った。いろんな出会いがあって、愛があって、街のなかに人が暮らしている。桜も一樹もこれから共に生活をするのに多少の不安はあったが少しずつお互いに慣れていこうと決めた。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み