第9話 また一人になる

文字数 1,950文字

 海外でピアノの講習会を受けているときに、突然の訃報が届いた。会社を経営していた祖父が亡くなったのだった。慌てて帰国すると、祖母は気が抜けたようになっていたし、弁護士が来て、遺産の手続きやで慌ただしかった。ただ一樹が何か口を挟むことはなかったが、彼が何一つ不自由がないように遺言が書かれており、その通りに分けられた。自分の父も久しぶりにその時に会ったが、特に会話はなかった。一樹に会いたくないのか、近寄ってこない。父はすでに再婚していて、再婚相手との子供がいて、それも男の子だったので、一樹は後継という存在にもならない。その中学生の弟は出来がよく中高一貫校の私学に通っているようだった。
「こんにちは」とその弟に声をかけられた。
「こんにちは」と一樹は挨拶を返す。
「…あの」
 何を言い出すんだと身構えながら、分厚い眼鏡をかけた少年を見る。いかにも勉強をずっとしてきましたといった感じだった。
「ピアノ…」
「ピアノ?」
「ピアノ…上手いんですよね」
「…まぁ」
「いつか聞かせてください」と言って頭を下げる。
「好きなの?」と聞くと、なんだかアニメの編曲を演奏している動画を見たそうで、そこからピアノが弾けるといいなぁと思ったそうだった。
「そっか。じゃあ、そういう曲も上手く弾けるように練習しておくね」と言うと、眼鏡の向こう側の目が嬉しそうに笑った。
 それ以外は父の奥さんとも話をしなかったし、一樹は祖母をただ支えながら、葬儀を終えた。
 葬儀を終えて、翌朝、祖母が一樹に言った。
 彼岸を過ぎて、ようやく朝は過ごしやすいと思えるような気温だった。
「一樹…この家はお父さんとの思い出が多すぎるから…。私は…しばらくドイツに行くわ」と祖母が言う。
「え?」
「ごめんね。この家の名義はあなたのものにしてあるし…、後…いきなりの一人暮らしで大変だと思うけど、時々、お家の掃除をしてくれる人は頼んでいるから」
「…帰ってくる?」
「…そうね。落ち着いたら…。でもこの家には住める気がしないわ。お父さんがすぐそこにいそうな気がするから」
 そう言って、祖母は四十九日を終えるとドイツの知り合いのところへ行ってしまった。自分は祖母の支えにならなかったと落ち込んだ。母がいなくなって、祖父母に育てられてきたが、何一つ返せなかった気がする。その日から一樹はたった一人になった。

 一人の家はピアノの音がよく響いた。家の隣のアパートの収入もあるし、学費も十分残してくれた。なんなら働く必要のない程、お金を残してくれていた。その代わり、会社のことは全て父が受け継いでいた。
 お金はあるが、誰にも必要とされていないような漠然とした寂しさを覚える。

 一樹は突然の一人暮らしに戸惑いながらも、新学期が始まり大学へ通った。
「桜木君、おはよう」と沙希が眩しい笑顔をむけて来る。
 一人になって寂しさを抱えていたので、その笑顔が一瞬で心を明るくさせてくれる。
「おはよう。久しぶり」
「ウィーンの講習会、どうだった?」
「…よかったよ」
「私、またコンクールでニ位だった。悔しい」と沙希が言う。
 何を言っても、沙希が眩しく感じる。
「…どうかした?」
「急に祖父が亡くなって…」
「まぁ。それは…」と沙希は悲しそうな顔をした。
「ちょっと聞いてくれる?」と一樹は初めて他人に自分の生い立ちを話した。
 母が自分を産んで、小さい頃に出て行った事、父はすぐに他の人と再婚した事、それからずっと祖父母に育てられてきたこと、そして一人になったこと。育ちのいい沙希は驚いたように目を大きく開けた。
「…また一人になったな…って思って」
「桜木くん」と沙希の目が涙で揺れる。
「あ。ごめん。同情して欲しかった訳じゃ…いや、して欲しかったのかな」
 一樹の代わりに沙希が泣いてくれて、心が暖かくなる。
「私、ご飯作りに行こうか?」と沙希が言ってくれるので、一樹は嬉しくなった。
「ありがとう。…でもそんなことしてくれたら…帰った後が辛くなるから」
「じゃあ…。お弁当作るから」
「優しいね」
「え?」
「君が好きだ」
 沙希の涙で赤くなった目を真っ直ぐ見て言った。
「たまらなく」
 驚いて動けなくなった沙希を置いて、一樹は一人で練習室に向かった。今までも沙希には好意を伝えてきた。でもそれは冗談のように流せる感じで軽い口調だった。
 沙希も言われて、「もう」と口を尖らせては笑っていたが、今日はそんな感じではなかった。心から側にいて欲しいと言われたことが分かる。
 このまま中途半端でいられないのは沙希も気づいていた。
 ピアノの世界で純粋培養されてきた沙希にとって、一樹は初めて会う人間だった。そんな辛い過去を持っていたなんて思っても見なかったし、周りにもいなかった。
 そしてその悲しい過去は暗いながら魅力的に光って見えた。
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