第57話 桜と月

文字数 2,487文字

 庭の桜が咲いた。桜が折ってしまった枝は植木屋さんに切られて、ちょっと形が凹んではいたが、満開だ。それを縁側に腰かけて、桜は眺める。隣のアパートも取り壊し予定になっている。落ちたベランダはそのまま修理されずにあった。
 風が心地よく吹き、桜はくしゃみをした。
「花粉…かな」と言って、桜は鼻を手の甲で擦る。
「桜…」と一樹がピアノの練習の休憩に立つ。
「綺麗ですね。お家に桜の木があると、こうしていつでもお花見ができるなんてすごく贅沢です。今日の夜はお花見メニューにしますね」
「ありがとう。僕一人だったら、こうして桜を眺めることもなかったけど…」と言って、桜の隣に座った。
 桜は一樹の肩に頭をもたせかけて、ずっとこうしていられたらいいな、と思った。年を重ねてもずっとこうして、一緒に桜を眺める春が来るといいな、と空を見上げる。
「桜…いい名前だね」と一樹が言った。
「はい。何だかお母さんの幸せな気持ちが込められてるみたいで」と笑う。
「荷物…そろそろまとめないとね」
「はい…。服だけでも大丈夫ですか?」
「うん。家具付きの部屋を借りる予定だし…。足りないものは買ってもいいと思うから」
「はー、新生活にドキドキします」
「うん…」と一樹は桜の髪にキスをした。
 しばらくは語学学校に桜は通う予定だ。それと料理の学校も通えたらいいな、と思っている。一樹が忙しくする間、桜も何かしようと思っていた。
「さてと」と桜は立ち上がった。
 夜はちょっといいものを作って、お重に詰めて、二人だけのお花見をする予定だった。桜はスーパーに買い物に行くと言うと、一樹も一緒に行くと言う。
「いいのに…」
「ちょっと僕も気晴らししたいから」
 ゆっくり散歩して、二人でスーパーに向かった。お重に入れる材料を買い、手を繋いで帰ってくる。ちょっと距離があるけれど、それが嬉しかった。そして帰ってきて、一樹はピアノを練習し、桜はご飯を作った。お重にはエビフライと、コロッケ、ローストビーフ、ラタトゥイユ、ブロッコリーのガーリック炒めを入れる。一つ一つ手作りで、明日も食べれるように、たくさん作って冷蔵庫のなかに入れる。
 ご飯はお稲荷さんを作った。シンプルに胡麻だけの具だった。
 日が沈むのも遅くなっている。桜は冷やしたスパークリングワインを取り出して、縁側に運ぶ。春とは言え、日が沈むと肌寒い。ブランケットを用意して、庭に雪が降った時に買ったランプを置いた。ぼんやり明るくなる。
「桜…」と一樹が呼ぶ。
「一樹さん…桜餅、買うの忘れてました」
「あ…、じゃあ、行こうか?」
「はい。もし嫌じゃなければ」
 そしてランプを消して、もう一度、暮れかけた夜の街に出かける。駅前まで行けば、和菓子屋がある。桜は一樹と手を繋いで歩くだけで幸せだった。桜餅を買って帰るだけの散歩は贅沢な気がする。
「ドイツ行ったら、車…いるね」と一樹が言う。
「そうですか?」
「うん。桜といろんなところ行きたいから」
「嬉しいなぁ」
 大切にされてるのが分かって、温かい気持ちになる。帰り道はすっかり夜道になっていた。家に戻って、手洗いうがいを済ませて、二人だけのお花見が始まった。一樹は珍しくラジオをかける。
「今日は、何かありましたか?」
「あのアーティストの新曲披露だって」
「あ…そうなんですね」
 チャリティで共演したアーティストだった。一樹が曲を作っていると言っていた新曲だ。ちょっとだけ嫉妬する気持ちはあるけど、一樹が作った曲を聴きたかった。スパークリングワインで乾杯して、桜を見る。庭のランプに火を灯して、二人で静かに夜桜を堪能した。
「美味しそうだね」とお重を見て、一樹が喜んでくれる。
「頑張りました」と桜も少し嬉しくなる。

 ラジオ番組が始まって、いつものDJが挨拶する。

『こんばんはー。いつもながら生きとしいけるリスナーさん、元気にしてますかー。僕ねー。春が来そう。っていうか…もう結婚したい。本当にいつも言ってるけど、今年は結婚するって皆さんに宣言してしまいます。結婚してもみんなのDJは変わりませんから。さて今日はスペシャルゲストが来ています。アーティストのナギーさんです。いつもチャリティーでお世話になってますけど、今回は新作紹介も兼ねて…来てくださいましたー』
『こんばんはー。ナギーです。オッケー。今日は新作抱えて来ましたよー』
『新作ほやほや。これって、あれですか? うちのお抱えピアニストの桜木さんと作ったやつですか?』
『そうです。お抱えだったんですか? すみません。ほぼ、曲、作ってもらって、私が詩を書きました』
『へぇ。そんなこともできるんですねぇ』
『結構、サクサク作ってくれて…。で、まず一曲目はこれ…流して欲しいんですけど』
『え? これ? あー、まー、季節ですしね』
『そうそう。季節ですから』
『季節だからね。他意はないですよ。では季節ですから、せっかくなので聞いて頂きましょう。ナギーさんで『桜』です』
「え?」と思わず桜は声を上げた。
 自分の名前がタイトルになっているなんて、思いもしなかった。ピアノのアルペジオのイントロから始まる。

『季節が変わっても
 君に会いに行きたい
 会えなくても
 側にいるような気がして
 いつもの場所、同じ時間、繰り返し
 君を探して
 目を閉じれば
 一面の桜吹雪
 一面の淡い…思い出』
 ナギーのハスキーボイスで歌い上げる。
「…一樹さん」
「曲…。桜のために作った曲だから」と一樹が言った。
「あ…。嬉しい」と桜はお重を少し縁側の後ろに下げて、飛びつく。
 まさか曲を作っていてくれてるなんて知らなかった。
「歌詞は…彼女が書いたから、どんなふうになってるか知らなかったけど…」
「素敵です」
 少し冷えた夜風が吹いて、桜の花がちらちらとこぼれ落ちる。
 ナギーの声がラジオから流れてくるのを聴きながら、桜はこの時間が不思議な気持ちになった。出会った奇跡、今からの未来…、桜は今日に感謝して、これから超えていかなければならない問題があったとしても、やっていこうと決心する。
「月が…」と桜は東の空を見る。
 夜になって、春の月がゆっくり登り始めた。
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