第30話

文字数 896文字

「なるみ、私は強くもなければ優しくもない。ただこだわりがない、っていうのが正解かな」

「こだわりがない...」

「そう。私は特にああしたい、こうしたい、っていう欲求がみんなと比べてずーっと低いんだ。例えばお腹は空くけど、あれが食べたいこれが食べたいって欲望はないから、とりあえず空腹を満たせればなんでもいいの。おんなじように、仕事も働かないと社会保険支払えないから、お金もらえるならなんでもいいやって、そんな感じで行ってるだけで。これがしたい、あれがしたい、っていう情熱がないんだよね」

なるみは芽衣里の言っていることの意味がわかっているのだろうか。だんまりを続け、何かを思索しているようだ。

自分の生き様に憧れを抱くなら、それも良いだろう。ただし、芽衣里の感じる現代社会への違和感と息苦しさを理解するまでには、きっとなるみは至らないだろう。

「ほらほら、望菜実が飽きちゃってるよ」

放っておかれた自分の状況に不満を表すかのように、望菜実は空になった皿をドラムに見立てて遊んでいた。

「ごめん、もなちゃん。テレビの時間だよね...」

なるみは子ども椅子から望菜実を下ろし、テレビの前に連れて行った。望菜実は液晶画面に現れた着ぐるみを見て、嬌声を上げる。

「なるみは小さい時から真面目で、何事にも一生懸命に取り組んで、ちゃんと結果も残して、年齢相応の人生を歩んで、私からしたらすごく親孝行だし、社会にも貢献してて、偉いなって感じる。ウチの母だっていつもなるみのこと褒めてるよ」

本当に何回なるみと自分を母は比べたものだろう。その度に出来が悪く、気力もない自分を、芽衣里は母に対して申し訳ないと思う。

窓の外で時報の「夕焼けこやけ」が鳴るのが聞こえた。午後5時を知らせている。

「ごめん、私は明日シフト入ってるから、そろそろ帰るね」

芽衣里は鞄を持って席を立った。

「あのね、望菜実の初節句、今年はやらずじまいだったから、来年やろうと思うの。それとね、まだ早いけど七五三のお祝いもしたいなって...」

来年。

芽衣里の胸にずしりと何かが突き刺さる。

「来年のことを話すと、鬼が笑うよ」

なるみの目をまっすぐ見て、芽衣里はそう言った。

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登場人物紹介

大野芽衣里、37歳。

特技、趣味、欲なしで生きてきたフリーター。

坂月なるみ、37歳。

芽衣里の中学時代の友人。

長年不妊治療をし、やっと出産を果たす。

坂月望菜実、0歳。

なるみの娘。

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