第5話

文字数 1,109文字

それはなんとなく芽衣里も聞いたことがあった。

「私は精神科医として、なんとかこの不名誉を挽回できないものかと試行錯誤した。その結果が安楽死を導入してしまうことだった」

空調の音が途切れた。なんとなく芽衣里は椅子に腰掛け直した。

「自殺は多くの場合、前触れもなく突発的に起こしてしまうものです。それ故、遺された周囲の人間は悲しみとともに後処理に奔走しなくてはならない。場合によってはマスコミに追い回されたり、心ない中傷を受けることだってありえる」

朝のラッシュ時に人身事故があって、いらついた経験は芽衣里にもある。遺族が世間からの厳しい視線に晒されてしまうのもありえるだろう。

「だから、きちんと公式に死ねる場所があれば、暴挙に出る必要もないし、後始末の手間も省けると私は考えています。この外来の設立意義はそこにあります。ここを利用する際、まず一年間の猶予期間を設けています。この期間にご自身が生涯を終えるにあたってのご準備を行っていただきます。準備がすべて整って、お気持ちが変わらないのであれば、またここに来ていただいて診療を行います。ただし、診療を行う前にはすべてが整っているかチェックします。一つでも整っていなければ、診療は行いません。そしてその方は二度とこの外来をご予約することはできません」

A4用紙に書いてある条項を院長は強調した。

「ここは病院であって、心身に不具合を起こした方がいらっしゃる場所です。異常がないと認められる方への診療は行えないからです」

では芽衣里が異常であるとすれば、どんな点になるのか。その疑問に対してはすぐに院長の口から返された。

「一年間の準備中には死についてさまざまな角度からお考えになっていただきます。中には公的な手続きもありますが。かなりたくさんのやることがありますので、時間内にこなせない方、面倒になって投げ出す方もいます。その方たちはご縁がなかったと私たちは捉えています。ですが、一年間を死についてそこまで考え、煩雑な手続き含めて完璧にクリアしてきた方については、はっきり言って心の病にかかられていると考えます。それ以上、生きていられてもご本人が苦しいだけです。そのため、すべて整えられた方には診療を行います」

普段、そんなに深く物事を考えない芽衣里だったが、院長の説明にはそれなりに説得力があり、理解ができた。

「では大野さん、よくお考えになって、ご準備ができましたら、また1年後にここへいらしてください。私どもはお待ちしていません。すべては大野さんのご選択です。そこはお忘れなく」

「はい...」

院長は席を立ち、すぐに看護師が来るのでそのまま待機しているよう芽衣里に言って、部屋を後にした。



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登場人物紹介

大野芽衣里、37歳。

特技、趣味、欲なしで生きてきたフリーター。

坂月なるみ、37歳。

芽衣里の中学時代の友人。

長年不妊治療をし、やっと出産を果たす。

坂月望菜実、0歳。

なるみの娘。

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