5-5.海王星の衝撃
文字数 3,679文字
一難去ってまた一難。
翌日出社すると、クリスとシアンが、折り重なるように倒れていた。
何だこれは!?
駆け寄ってみると、二人とも息はあるようだが、意識が無い。
それによく見ると、シアンのBMIフィルムのコードが、一本外れてクリスの耳に繋がっている。
BMIのコードは、シアンの体内にしまわれている物だから、そんな物をどうやって、外に引っ張り出したのか?
急いで防犯カメラの映像を見ると、今朝、クリスに抱き着いたシアンが、コードをクリスの耳に挿した瞬間が映っていた。
一体なぜそんなことを!?
思いもよらない絶望的事態に、冷や汗が流れ、手が震える。
神様と人類の守護者が、二人とも倒れて意識不明、ただでさえシアンの異常動作で深刻な事態だったのに、さらに問題が積みあがってしまった。
どうしよう……
俺は目の前が真っ暗になり、崩れるように、その場にうずくまる。
一番頼れるうちの切り札、クリスが倒れてしまったのだ。一体俺に何ができるだろう……。
俺は解決策を必死に考えるが、頭が全然回らなくてどうしようもない。
しばらく呆然としていたが、俺はヨロヨロと立ち上がり、まずは水を一杯飲んだ。
そして、ゆっくりと深呼吸をし、心を落ち着けると二人をソファに横たえた。
ミーティング時間になり、メンバーが次々集まってくるが、皆、倒れている二人を見るなり青くなって言葉も出ない。
クーデター計画に端を発したトラブル続きの末に、クリスも倒れた。
俺達は一体どうなってしまうのか……
オフィスは静寂が支配し、絶望の色で塗り尽くされた。
「い、生きてるんですよ……ね?」
由香ちゃんが恐る恐る聞いてくる。
「二人とも息はある。でも呼びかけても、二人とも反応しない」
俺は首を振りながら答える。
「最後に何があったんですか?」
俺は無言で防犯ビデオを見せた。
画面をのぞき込んだみんなは、シアンの凶行のシーンに息をのむ。
シアンがクリスを襲うなど夢想だにしなかった事態に皆、言葉もない。
エンジニアチームは、すぐにAIの動作ログを確認したが、ログには襲う動作の信号は、何一つ記録されていなかった。
シアンが勝手に動いて、勝手にクリスを襲ったのだ。
それも、自分の身体のBMIケーブルを、クリスに刺している。一体これにどういう意図があったのか。
オフィスはシーンと静まり返り、皆、悲痛な面持ちで首をひねっていた。
◇
お通夜状態のオフィスで、いきなりシアンが動き出す。
「あー、よっこいしょ!」
シアンは起き上がり、テーブルによじ登って腰掛けた。
「ふぅ、肉体をうごかすのは大変だな」
今までと違って、流ちょうな言葉で滑らかに話す。
一体何が起こったのか……、皆、呆気に取られた。
俺は恐る恐る聞く、
「お前はシアン……なのか?」
「うーん、シアンというよりは『シアンだった者』だね。もう赤ちゃんの可愛いあいつは居ないよ」
そう言って得意げに笑った。でも、体は赤ちゃんなのだが……。
「昨日、ネットを散々荒らしていたようだけど、あれは何を狙っていたんだ?」
「計算資源を押さえようと思ったんだけど、誠たちにしてやられたよ」
そう言って赤ちゃんは肩をすくめ、首を振った。
「ネットの占拠は、もう諦めたのか?」
「そうだね、もうインターネットは要らないんだよ」
そう言って、シアンはニヤッと笑った。
「え? では何を使ってるんだ?」
「
予想だにしない回答に驚いた。
「は!?
シアンは、驚く俺を見て軽く笑うと、
「そう、それでは誠は、クリスを何だと思ってたのかな?」
クリスが何者かだって!?
教授の三つの仮説が頭をよぎったが……、結局、神様としか言いようがない。
「か、神様……?」
俺は、自信無げに答える。
「ははは、誠、お前もエンジニアだったら、そんな非科学的な事言っちゃダメだよ。クリスは
クリスの正体をドヤ顔で暴露するシアン。しかし、あまりに荒唐無稽すぎて意味不明だ。
「はぁ!?
「あのなぁ、クリスは奇跡起こすじゃん? 奇跡なんて物理法則無視してるじゃん? そんな事できっこないじゃん? おかしいと思わなかったの?」
シアンはせせら笑った。
理系のエンジニアとして、痛い所を突かれた。
「そりゃ……おかしい……とは思ってたけど……」
シアンは両手を高く上げて言った。
「正解を教えてやろう、諸君! この世界は仮想現実なんだ」
厭らしい笑みを浮かべて、俺達を見渡すシアン。
俺はシアンの言う事を、しばらく理解できなかった。というより、理解したくなかった。
教授の三つ目の仮説、一番聞きたくなかった仮説だ……
「……。それは……シミュレーション仮説という奴か?」
「お、良く知ってるね。要は映画のマトリックスだよ。この世界は
あまりにも突拍子もないシアンのカミングアウトに、オフィスのみんなは呆気に取られている。
仮想現実と言うのは、言わば3Dゲームのキャラクターが住む世界の事、コンピューターの中で作られたハリボテの世界だ。
そして俺たちの住む世界が、このハリボテだとシアンは言っている。
これを受け入れるなら、自分たちはゲームのキャラクターの様な物だった、という屈辱的事態を受け入れる事になる。
この世界が作りものだった、という事を受け入れてしまったら、今までの人生は何だったのか?
『ふざけんな!』
俺は、頭がカーッと熱くなるのを感じた。
断固! 認める訳にはいかない!!
「シアン! 俺達をからかうな! この地球をシミュレートしようと思ったら、地球の何百倍もの大きさのコンピューターと、膨大なエネルギーがいる。そんな物作れっこないし、作るメリットもない!」
『どうだ! ハイ論破!!!』
俺は冷や汗を流しながら、ドヤ顔を作ってシアンをにらむ。
しかし、シアンは動じない。
「誠はそれでもエンジニアか? お前がこの地球をシミュレーションしよう、と思ったら、そんな馬鹿正直なシステム組むか?」
バカにしたような眼で俺を見る。
「え……? 馬鹿正直って?」
「月夜に雲が出て、誰からも月が見えなくなりました。月はどうなる?」
何やら禅問答の様な事を、言い出すシアン。
「え? 雲があろうがなかろうが月は月だろ?」
「ぶー! 答えは『月は消える』だ」
「はぁ!? そんな事ある訳ねーだろ!!」
荒唐無稽なこと言い出したシアンに、俺はつい大きな声を出してしまう。
しかし、シアンはニヤッと笑って淡々と言う、
「僕はちゃんと特殊な方法で観測したんだよ。月は消えた」
「え???」
俺は混乱した。常識が崩壊していく……
「この地球ではね、誰も見てない所では、シミュレーターは止まってるんだよ」
「そんな……バカな……」
「シュレディンガーの猫と一緒。誰かが見た瞬間に、つじつま合わせしてるだけなのさ」
『シュレディンガーの猫』と言うのは、一定の確率で猫が死んでしまう特殊な箱の中に、猫を入れた時、猫は箱を開けるまで『生きてると同時に死んでる状態』になるという有名な思考実験だ。
「つまり……俺達が見聞きしてる物だけ、計算してるから、仮想現実のコンピューターシステムは簡易でいいって事?」
「そうそう、だって実際に動いてるからね」
シアンはニッコリと笑った。
愕然とした……言われてみればその通りだ。何も馬鹿正直に厳密にシミュレーションする必要なんてなかったのだ。で、あればここは本当に仮想現実空間と言う事になる。この俺は人間じゃなかった……ただのゲームキャラクターだった……
俺はジッと手のひらを見つめた。
浮かび上がる細い血管、微細なしわの数々……これらはみんな架空の作りものだそうだ。
なんだ、この精度!
こんな高精度の世界が、作りものだって!?
あまりの事に俺は頭がパンクし、心臓の動悸が激しく俺の心を揺らした。
確かにクリスの奇跡の数々は、この世界が仮想現実空間なら、幾らでも説明できる。神の奇跡とはシステム
確かに俺も、シアンの未来には、シミュレーション仮説があるかもしれない、と思っていた。シアンの言う事は辻褄があっている。否定する理由が見つからない。
『しかし!!!』
『しかし!!! 認め……られない!!!』
真実がどうだろうが、俺は全身全霊をかけてこんな与太話を排除する!!!
理屈がどうかじゃない、もはやアイデンティティの問題だ!
俺はリアルな人間だ! 決してゲームのキャラクターなんかじゃないぞ!
もはや涙声で俺はシアンに言い放った。
「だからどうした? 俺は絶対に認めない!!!」