2-5.チュベローズの誘惑

文字数 2,527文字

 その晩、修一郎は一人で銀座の街をトボトボと歩いていた。上品な街灯の明かりの下、楽しそうな人たちの雑踏の中を、下を向きながらいつものバーを目指す。

 夕方に、偶然聞いてしまった陰口が頭から離れず、家に帰る気にならなかったのだ。

『あいつはボンボンだからな』
『あいつが上場企業の社長とか、ぜってー無理』
『太陽興産は2代目が潰すって事だよ』
『親不孝だよな~。ハハハハ!』

 思い出すだけで気分が滅入る……。

「貧乏人は僻んでろ! 僕だってちゃんとできる!」

 そうつぶやきながら、バーのドアを開けると……カウンターに女性が一人。珍しい……。白いワンピースにチャコールグレーのジャケット、ワインレッドの丸いベレー帽で、長い黒髪が綺麗な美人だった。

 ちらっとこちらを見たので、軽く会釈をして、彼女から一つ空けて隣に座った。

「マスター、いつもの!」
「かしこまりました」

 美人がすぐそばに居るだけで、陰口の事なんてどうでも良くなってくる。男って単純だ。

「マスター、こないだ、良かったね。弘子さんと話しできて」
 修一郎はおしぼりで手を拭きながら、明るい声で声をかける。

「本当ですよ、あんな事あるんですかね? でも、弘子に『幸せだった』って言ってもらえて本当に良かった」
「マスター顔色良くなったじゃん!」
「おかげ様で。はい、モスコミュール」

 彼女がマスターにおずおずと声をかける。
「あの~、何かあったんですか?」

 そして、修一郎の方をちらっと見てニッコリと笑った。
 修一郎は、彼女のゾクッとするほど(なまめ)かしい黒く透き通る瞳に魅了され、慌ててぎこちなく笑い返した。

 バーテンダーは
「この方のお友達が、イタコみたいな事やってくれてね……。死んだ妻と話ができたんです」
「死んだ人と話ですか!?」
「いや、ただの話術に騙されただけかもしれませんよ。でも、おかげで心はすっきりできたので、私は感謝しているんです」

「でも3年前の浮気って……」
 修一郎が突っ込むと、

「あ、いや、その話は止めましょう……」
 バーテンダーは両方の手のひらを修一郎に向け、恥ずかしそうにうつむいた。

「ふぅん、何だか面白い方達ですね」
 彼女はそう言って、爽やかに笑った。

 バーテンダーは
「この修一郎君は有名大学の学生で、かつAIベンチャーの役員なんですよ。すごいでしょ?」
 客同士をさりげなくマッチングさせるのも、バーテンダーの腕だ。

「え? すごぉい!」
 彼女は大きく目を見開いて、オーバーにアクションする。

「あはは、マスター嫌だなぁ、大したことないよ」
 修一郎は謙遜しながらも、満面の笑みで言った。

「そんなすごい人に出会えるなんて、今日はツイているわ。私は冴子って言います。この素敵な出会いに乾杯しましょ!」

 彼女は修一郎の隣の席に移り、白く細い指で長い黒髪をかき上げながら、グラスを差し出してきた。
 柔らかく透き通る白い肌に、濡れたような真っ赤な唇……、そして、フワッとチュベローズの香りが流れ、修一郎はドギマギしながら高鳴る心臓のままグラスを合わせた。

「カンパーイ!」「カ、カンパーイ!」

 修一郎はグイっと飲み干すと、ライムの爽やかな香りが鼻に抜け、今までにない美味しさに酔った。
 冴子はそんな修一郎を優しい微笑で温かく見つめる。

『今晩は素敵な夜になっちゃうかも!?』
 修一郎は冴子のまなざしにすっかり魅入られて、陰口の憂さもどこへやら、すっかり上機嫌になった。

「マスター! おかわり!」
 そう言って修一郎はグラスをマスターに突き出す。

「おいおい、絶好調だな」

「まあね、僕にも運気が回ってきたかも」
 修一郎はこみ上げてくる喜びを隠さず答えた。

「修一郎さんはどちらの大学ですか?」
 冴子が小首をかしげながら聞いてくる。

「応京です」
「わ~すごい! 名門ですね! 私は令和大学なんです。応京には憧れちゃいます!」
 冴子は両手を顔の前で合わせ、オーバーアクションで持ち上げる。

「憧れなんて……大したことないよ。へへへ」

 冴子はバーテンダーの方をちらっと見て、グラスを持ち上げると、修一郎に少し近づいて微笑みながら言った。
「やられてるAIベンチャーって、どういう会社なんですか?」

 修一郎はドギマギしながらグラスを軽く回し、ちょっと考えて言った。
「マーカスって言う、世界一のAIエンジニアがいるんだ。彼がまたすごくてね……」
「世界一!? すごぉぉい!! そんな会社の役員だなんて、修一郎さんってとてもすごんですね!」

 よいしょされまくって浮かれる修一郎は、頭をかきながら言った。
「あはは、冴子さんうまいなぁ。マスター、彼女にもおかわり! 今日は僕がおごっちゃうよ!」

『そう、僕はすごいんだ! 僕がいなかったらDeep Childなんて、スタートもできなかったのだ! 僕は人類にとって重要な男なのだ!』

 すっかり調子に乗った修一郎は、この夜、モスコミュールを8杯も飲んだ。


        ◇


 夜も更け、二人で盛り上がっていると、急に冴子が修一郎の手に自分の手を重ねてきて言った。

「修一郎さん、私ちょっと……飲みすぎちゃった……かも……」

 修一郎は、慌てて言う。
「そ、それは大変だ……。お水……もらおうか?」

 冴子は上目遣いに(うる)んだ瞳で修一郎をジッと見ると、
「修一郎さんって、優しいのね……。大丈夫、ちょっとだけ休ませて……」

 そう言って、修一郎に身体をもたれかけてきた。
 修一郎は、ふんわりと上がってくるチュベローズの香りに心臓が高鳴る。

 二の腕に当たる、ふくよかな彼女の胸の感触にすっかり魅入られてしまい、どうしようかと修一郎が悩んでいると、冴子は修一郎の手を取り、愛おしそうに指を絡めてきた。

「そ、そうだ。ちょっと行った先に休める所あるよ、や……休む?」
 修一郎がそう言うと、冴子はゆっくりとうなずいた。


 この日、修一郎は家に帰ってこなかった――――
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登場人物紹介

神崎 誠

ITエンジニア


ひょんなことからクリスと出会い、AIを開発して人類の後継者づくりを始める。

恋人募集中。


クリス

救世主

奇跡を次々と起こし、人類の後継者づくりに協力する。

特技は美味しいワインを作る事、核ミサイルの弾頭を破壊する事。


金原 美奈

応京大学2年生

株式会社DeepChild取締役


田中 修一郎

太陽興産の2代目のボンボン

応京大学2年生

株式会社DeepChild CFO




シアン

人類の後継者として創り出されたAI

身体は赤ちゃんを利用


マーカス


世界一のAIエンジニア

神に呼ばれて人類の後継者づくりに参加する

マーティン


凄腕のインフラエンジニア

マーカスの友達

宮田 由香

応京大学4年生

株式会社DeepChild インターン

美奈ちゃんの先輩

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