【5】-4

文字数 3,992文字

 クリスが採掘マシンを探し当てたのと同日、午前11時。四つ葉たちは、空港から長崎港に向かう車中にいた。四葉がハンドルを握り、後部座席にはガリーとカーラ。ガウスの姿はない。

 カーラがガリーに聞く。
「ガウスさんは1人で先に?」
「ああ、少し考え事をしたいと言って、タクシーに乗って行ったよ」
「団体行動がよほどお嫌いなんですね」

 ガリーは眼鏡を外し、レンズを拭き始めた。
「実は、あれから彼に関する情報をRMAの幹部に提供してもらったんだよ。最初は情報を開示するのを渋ってたが、このままでは敵との戦いにも支障が出る、と粘ったら、RMAに彼が加入したいきさつを教えてくれた。

 彼は、とある名門大学に入学が決まり、ギムナジウムの卒業旅行として数学者の聖地と言われるゲッティンゲンを1人で旅している最中に魂魄転写に見舞われた。彼はその時に蘇ったカール・フリードリッヒ・ガウスの記憶のせいで重度のストレス性障害を起こし、その場から動けなくなった。

 他の旅行者からの通報で警察が駆け付けるまで、彼は森を通るトレイルのそばで2日間、放心状態でうずくまっていたそうだ。その後、病院に搬送され、現地警察のB教授の知人からの連絡でRMAの保護下に置かれた」

「ストレス性障害を起こすほどの衝撃的な記憶…」
「ガウスは、数学のみならず天文学や物理学にも多大な影響を与えた偉大な学者だ。しかし、一匹狼的な性格で人と打ち解けず、他の学者の手を借りることなく、膨大な理論をほとんど1人で作り上げた。そんな(かたく)ななガウスの心を開いたのが、26歳の時に出会ったヨハンナだった。

 彼女は大変な美人というわけではなかったが、快活で優しく、どんなことでも子供のように楽しがった。ガウスは2年に渡って手紙でヨハンナに求婚し続け、ようやく彼女を手に入れて子供も授かった。
 しかし、結婚してわずか4年後、次男の出産時にヨハンナは亡くなり、その次男も間もなく夭逝した。最愛の人に先立たれたガウスは、しばらく魂の抜け殻のようだったそうだ。

 魂魄転写が起きた時、蘇った記憶というのが、その絶望のどん底にいたガウスの記憶だ。ギムナジウムを首席で卒業した彼も、素晴らしい頭脳を持っていたが、あまり人になじめず、小さい頃からずっと友達の輪の外に1人でいるような子供だった。初めて親友と呼べる相手ができたのは、ギムナジウムに入ってからだそうだ。
 その少年はとても明るい性格で、心の壁を苦もなく乗り越えて、ガウスを孤独の檻から解放した。ガウスは卒業旅行もその親友と行く約束をしていた。だが、その前に親友は事故に遭った。携帯電話のわき見運転で突っ込んできたトラックにはねられて即死だったそうだ。

 それでも彼は、親友との約束を果たし、何とか気持ちの整理をつけようとして、1人で卒業旅行に出かけたんだ。ところが、悪いことにというか、彼の心情と親和性ができてしまったのかもしれないが、そこにガウスの人生最悪の記憶が転写された。

 実物のガウスは、他に幼い子供もいたから、嫌でも気力を振り絞って立ち直らなければならなかったが、ギムナジウムを出たばかりの若者がそんな記憶に耐えられるはずがない。ガウスの絶望の記憶は、彼の心を卵の殻のように押し潰した。
 RMAの下で心理治療を受け、彼はどうにか回復はしたが、それ以来、誰とも交わろうとしなくなった。人と親しい関係になれば、その先に待ち構えているのは絶望だけだと知ったからだ」

 ガリーが話し終えると車内はしばらくタイヤの振動とエアコンの音だけになる。
 車は高速を降りて川沿いを走る。道の両側でアメリカデイゴの街路樹が真っ赤な花をつけている。日差しはまだ暑かったが、河川敷に草の間を飛び交う赤トンボの姿が見えた。

 黙って想いを巡らせていたカーラが口を開いた。
「ガウスさんはその絶望を2度と味わいたくないのと同時に、人間のもろさを極度に恐れているんだと思います」
「人間のもろさ?」

「虫嫌いの人には2つのタイプがいます。虫の姿や動きが生理的に嫌いだという人と、虫がとてももろくて、些細な力で潰れたり足がもげたりするのが怖くて触れないという人です。

 ガウスさんは、自分が心を許した人がどれほどもろく、あっけなく死んでしまうのか、嫌というほど思い知った。そして、そんな思いをもう絶対にしたくないので、誰とも親しくならず、戦いの場ではいつも自分が矢面に立って、誰かが死ななければならないのなら、先に1人で逝こうと決めたんです。

 廃工場でガウスさんをかばって私がプラントの破片を浴びた時、彼は震えていました。重田さんが命を絶った時、これが安易に他人に心を許した愚者の末路だと呟いたのも、憎まれ口ではなく、自分自身に改めて言い聞かせていたんでしょう」
 そう言った後、カーラはバックミラーに映る四葉の顔を見た。四葉はあの一件以来、口数がめっきり減っていた。
 そして今、後部座席の2人の会話を聞いても、その表情はまったく変わらなかった。

 カーラは鏡越しに四葉に尋ねた。
「シバさんは、今の私たちの話をどう思われますか?」
 四葉は進行方向を見たまま、
「特に何も。ガウスがどんなトラウマを抱えていようがどうでもいいことです」
「そうですか。では、重田さんの死については何を感じますか?」
「カウンセリングでも始める気ですか? 確かに、目の前で人が死ぬのを見たのはあれが初めてです。しかも、人の好さそうな顔をして散々嘘をつき、僕らを裏切った上に自殺だとか。
 もちろんショックは受けましたが、僕にカウンセリングは必要ありません。トラウマになるどころか、時間が経つうちにだんだん腹が立ってきた」
「それは何に対する怒りですか?」
「何に対する? 仲間のふりをして人を陥れようとした挙句、勝手に死んでいく嘘つきにですよ!」

「人はみんな嘘をつきますよ。精神科の治療を受けている患者さんなんか、しょっちゅう嘘をついてます。心の病の本当の原因が明らかになることがどれほど自分を傷つけことになるか、無意識のうちにわかっているからです。

 もちろん、心を病んでいない人でも、自己保身や親しい誰かを守るために嘘をつきます。もっと他のやり方もあるでしょうけど、嘘をつくことしか思いつけない時もある。それは人間が持って生まれた防衛本能なので、誰もとがめることはできません」

 カーラはバックミラーの中の四葉の目をじっと見つめた。
「もう一度お聞きします、シバさんは誰に腹を立てているんですか?
 重田さんにですか? 彼を救えなかった私やガリーさんにですか? こんな戦いに絵理朱さんを巻き込んでしまったご自分にですか?」
 四葉は何かを言おうと口をもごつかせる。ハンドルを握る手が汗ばみ、車が小刻みに揺れる。

 見かねたガリーが、
「シバは運転中だ。今はもういいだろう」と止めに入るが、
「いえ、よくありません。車を停めて私の質問に答えてください」
 四葉は震える足でブレーキをかけ、車を路肩に寄せて停めた。ミラー越しにカーラを睨むが、何も答えない。
 車のサイドミラーの上に赤とんぼがとまり、羽を休めた。

「私が代わりに答えましょう。シバさんは、このいい加減で嘘つきで、不毛な争いばかり起こして理不尽に死んでいく、無能で無力な人類に腹を立てているんです。
 そして、それがわかっていながらどうすることもできない自分自身を一番憎んでいて、これ以上犠牲が出る前にアカデミーとの戦いを終わらせられないのなら、逆にアカデミーの方で自分を終わらせてくれて、もう何も見たり感じたりしないようにしてほしいと思っている。
 その考えは、ガウスさんと同じぐらい危険です」
 四葉はハンドルに顔を伏せ、ダッシュボードを殴りつけた。

「シバさん」
 カーラの声が優しさを帯びた。
「人間と、人間が作ったこの社会がなぜこんなに理不尽なものなのか、私もわかりません。
 でも、私は人が真剣に生きていない瞬間なんてないと思っています。嘘をついたり、怠けたり、道に外れたようなことしている時でも、自分を押し潰してしまいそうな過酷な現実や運命に必死に抗い、身を守り、悲鳴を上げている心と体を癒そうとしているんです。
 精神科の患者さんも全身全霊をかけて嘘をつきます。みんな、すべての瞬間を必死に生きているんです。いつかこの世界がもう少しましなものに思える日が来ることを願いながら」

 カーラはシートベルトを外した。
「前にクリスさんがシバさんのことを、やりたいことではなく、やるべきことをやろうとする人間だと言ってくれたとおっしゃってましたね。
 私もガリーさんもそう思っています。シバさんは、たとえ終わりの見えない戦いであっても、自暴自棄になったりせずにやるべきことをやり通す、信頼できる大切な仲間です」

 そして、レバーを引いてドアを開けた。
 サイドミラーの赤トンボが羽を広げて飛んでいく。
「運転を代わりますね。後ろで少し休んでください」

 車は再び長崎港に向かって走り出した。カーラと代わって後部座席に座った四葉は、背もたれに深く沈み、流れていく窓の外の景色を眺めていた。
 その目は、まだ暗いままだった。


 やがて車は市内に入り、繁華街を走る。祭りでもあるのか、あちこちに横断幕や提灯が吊られ、街中に人があふれていた。道路の一部が歩行者用に開放されているため、道も混雑し、渋滞を抜けるのに一苦労したが、港が近くなるにつれて、車の流れもスムーズになる。

 ところが、さらに港に近づくと反対車線を走る車が急に増えだした。その先の方からクラクションや喚声が聞こえ始め、閉め切った窓ガラス越しにもはっきり聞こえるほどの大騒音になる。
 大型倉庫や流通センターのビルを過ぎて、シグノーラと客船ターミナルが視界に入った時、ガリーが目を剥いて叫んだ。

「一体これは何の騒ぎだ!」

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登場人物紹介

RMA内部資料 偉能者簡易データベース 

[RMAサイド(50音順)]


カーラ(カール・グスタフ・ユング)♀  *心理学系偉能者 *国籍/アメリカ

   *偉能/偉能感知、アクティブ・イマジネーション、シンクロニシティ

ガリー(ガリレオ・ガリレイ)♂

   *力学系偉能者  *国籍/イタリア  *偉能/大気レンズ、慣性解除、慣性貫徹、透視望遠鏡

クリス(クリスティアン・アンドレアス・ドップラー)♂ *音響学系偉能者 *国籍/オーストリア

   *偉能/ドップラーシフト・レッド、ドップラーシフト・ブルー、超音波キャビテーション、

    低周波内部摩擦

ザック(アイザック・ニュートン)♂ *力学系偉能者 *国籍/イギリス 

   *偉能/万有引力反転、カウンター・リアクション

シバ(北里柴三郎 実名/奥寺四葉 北都大学3回生)♂ *微生物学系偉能者 *国籍/日本

  *偉能/抗血清速産

マイク(マイケル・ファラデー)♂ *電磁気学系偉能者 *国籍/イギリス

   *偉能/ファラデー・ケージ、ファラデー・ディスク

「アカデミーサイド(50音順)]


エルミン(ヘルマン・フォン・ヘルムホルツ)♀ *音響学系偉能者 *国籍/中国?

      *偉能/ヘルムホルツ共鳴、ヘルムホルツ空洞、超音波キャビテーション

ハーシェル (フレデリック・ウイリアム・ハーシェル)♂ *熱力学系偉能者 *国籍/ドイツ?

        *偉能/コールド・サン

ハーバー(フリッツ・ハーバー)♂ *化学系偉能者 *国籍/ドイツ?

       *偉能/毒物合成

パスツール(ルイ・パスツール 実名/蓮見蒼司 北都大学准教授・休職中)♂

    *微生物学系偉能者 *国籍/日本

    *偉能/細菌変性

フランクリン(ベンジャミン・フランクリン)♂ *電磁気学系偉能者 *国籍/アメリカ

           *偉能/ライデン・ガン、遠隔電流伝達

マクスウェル(ジェームズ・クラーク・マクスウェル)♂

               *電磁気学系偉能者 *国籍/日本・イギリス

               *偉能/第2方程式、第4方程式、マクスウェルの悪魔

モンタルト(ブレーズ・パスカル)♂ *数学系偉能者? *国籍/フランス?

         *偉能/確率操作?

紫マントの男♂ *音響系学偉能者? 国籍/?

「RMA管理下・元偉能者」


烏天狗(実名/古峰玄珠)♂ *未分類偉能者 *国籍/日本

     *偉能/羽団扇、飛行能力

弓削道鏡(実名/鬼塚法真)♂ *未分類偉能者 *国籍/日本

       *偉能/式神“騰虵”、鬼相、瘴気

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