【3】-2
文字数 4,123文字
そのダイニングで、仲間だと悟られないようにマイクは小野と、ザックは船医の浅井と別々の席で食事をとっていた。
新鮮な魚介をメインにしたコース料理を味わいながら、ザックは今日の調査結果について浅井に報告した。
「教えていただいた乗客のキャビンの場所も確認しましたが、船首側の部屋もあれば船尾側の部屋もあり、階もバラバラでした」
「幻覚を見た場所については?」
「それも確認しましたが、いずれも貨物室からは離れているし、エリキシルがばらまかれるような場所ではありませんね。幻覚を見た乗客たちの特徴をお聞きしていませんでしたが、年齢とか何か共通項はありませんか?」
浅井はワインを口に運びながら、
「確か、具合が悪くなったのは70代の夫婦だったと思う。あとは小学生の息子がいる家族、同じく小学生と幼稚園児の娘2人がいる家族に、中学生の娘と小学生の息子がいる夫婦だったな」
「高齢の夫婦と小さな子供がいる家族か。少し偏ってますね。何か変わったものを食べたとか飲んだとかいう話は出ませんでしたか?」
「もちろん、それは確認したが、他の乗客同様、船内のレストランでビュッフェやディナーを取った以外は食べ物を口にしていないそうだ。
飲み物に関しても、客室に置いてあるミネラルウォーターやコーヒーカプセルはパッケージされているから、少しでも破れていたらすぐに気づくだろうし、ミルクやジュースしか飲まない幼稚園児にも幻覚症状が出ているんだから、飲み物に混ぜ物がしてあったとは考えにくいな」
「なるほど」
ザックは食事の手を止めて、しばし考え込む。
「話は変わりますが、先生は小田島という2等航海士をご存知ですか? さっき1等航海士の浦瀬さんから聞いたんですが——」
ザックは抑えた声で、ユーティリティ室で聞いた話を浅井に伝える。
「そんなことがあったのか」
「誰が流したとも知れない噂なので、絶対に彼を疑いの目で見たりしないでくれと、浦瀬さんには念押しされましたけどね」
「小田島ねえ。会ったことはないと思うが…」
デザートを食べ終わると、浅井はコーヒーを一口すすり、ナプキンで口を拭いて、
「食後にマールを1、2杯ひっかけるのがいつものルーティーンなんだが、付き合わないか」
とザックを誘った。
2人は、今デザートが運ばれてきたマイクたちのテーブルにさりげなく目で合図し、席を立った。
バーに向かう途中、メインホールに差し掛かったあたりで浅井が吹き抜けを仰ぐように顔を上げた。
「小田島って、あいつのことかな」
「何か思い出しましたか?」
「うん、同船したことはないが、いい評判は聞かない男だ。酒癖が悪いとか、乗客と揉めたとか。真田のクルーズの時じゃないが、キャプテンと派手にぶつかって船を下ろされたこともあるらしい。
まあ、噂を鵜吞みにするのは軽率だが、それこそ瀬取りの手引きでもしているかもしれないから、マークはしておいた方がいいだろうな」
メインホールではピアノの生演奏が始まっていた。ホールの装飾に引けを取らないほどきらびやかな調べが流れる中を、乗客たちがさざめきながら行き交う。
船の出港当夜に早々とキャビンに引き上げる者はおらず、シアターやカジノなど、どこも多くの客で賑わっていた。バーも例外ではない。
ウォールナットの1枚板を使った長いバーカウンターのスツールは満席で、客の求めに応じてバーテンダーが鮮やかな手つきで、次々とカクテルを作っている。
「今夜はマールにありつけそうにないな」と浅井があきらめかけた時、
サングラスをかけた男性客が、バーカウンターから浅井に手を振ってきた。その男性の隣にいた2人の客が、ちょうど席を立つところだった。
「お知合いですか?」とザックが浅井に聞くと、
「船旅が好きで、どこかに行く時は決まって船を使う筋金入りのクルーズ愛好家だ。あまり目がよくなくて、2、3回診察したこともあるが、ユーモアを解する楽しい客だよ」
「やあ、先生。この前は世話になったね。あの時のシグノーラのクルーズは、終始好天に恵まれて実に快適だった。先生はこの船の
ところでお連れの方は?」
「私のロンドン留学時代の友人で、カムフォード君です」と浅井がザックを紹介する。
「ほお、ケンブリッジ大学の異名と同じ名前だね」
「私には手の届かない大学でしたが」
サングラスの男は右手を差しだして、
「私はレオ。だが、ここではシルバーと呼んでもらおうか。少々目が悪いので、船旅仲間が片目の海賊のあだ名をくれたんだ。実は、ジョン・シルバーは片目じゃないんだがね」
色の濃いサングラスをかけ、豊かな黒髪を肩になびかせたシルバーは、歳は40に届いていないかもしれない。しかし、その年齢以上の落ち着きや知性を感じさせる風格を持っていた。
ザックは手を握り返し、
「よろしくどうぞ。先ほど浅井先生から、無類のクルーズ愛好家だとお聞きしました」
「カムフォードさんはイギリス人のようだが、私は年がら年中、船であちこち旅をしているので、もう自分がどこの国の人間だったか忘れてしまったよ。
仕事も船の中でしているので、朝目覚めてみればヴェネチア、数日後にはモロッコといった具合さ」
「うらやましいお暮らしですね。私はロングクルーズは初めてですが、どうやら刺激的な経験ができそうです」
「ああ、船で旅をすれば、飛行機では絶対に味わえない体験ができる。あなたも今回のクルーズがきっかけで船旅の虜になるかもしれませんよ」
ザックと浅井の手元にオーダーした飲み物が届いた。
「では、カムフォードさんの初体験と浅井先生のご加護と
シルバーの音頭でグラスを合わせ、乾杯する。
浅井が酒を口に運びながら、
「シルバーさんは、これまでいろいろなものを見たり聞いたりされてきていますよね?」
「もちろんさ。なにせ海は陸地の2倍以上の広さがあり、今も多くの謎に満ちている。頼りのないこの目でも素晴らしい光景を見てこられたし、船旅仲間やクルーからも面白い話を随分聞かせてもらった」
「海の怪物の噂などもですか?」
ザックが水を向けると、シルバーはニヤリとして、
「白髪の老人が騒いどった“バクナワ”の話かい?」
「もうお耳に届いていましたか。そのバクナワというのは一体どんな怪物なんです?」
「フィリピンの神話に登場する巨大な海竜だよ。昔、この世界には7つの月があったが、月に魅了されたバクナワが海から駆け上がって6つの月を呑み込んでしまったために、月が1つになったと伝えられている。
白髪の老人は、オセアニアクルーズの際に、シグノーラが呪われた海域に入ったためにバクナワに襲われたと言っているんだろう? 日本を発ってフィリピン、インドネシア、ニューギニア、オーストラリアを巡るクルーズだったが、フィリピンに向かう途中、台風を避けるためにこの船は“ドラゴントライアングル”を通らざるを得なくなった」
「ドラゴントライアングル?」
「日本から約240マイル南にある海域で、そこを通った船や飛行機がたびたび消息を絶ったために“デビルズ・シー”と呼ばれたりしたこともある。だが、それも今は昔の話だよ。
当時は船の安全性も低く、GPSなどもなかったから、台風の発生件数の多いその海域で、大嵐に見舞われて難破したんだろうというのが大方の説さ」
「そのクルーズで老人の息子さんが失踪したそうですが、シルバーさんも参加されていたんですか?」と浅井が聞く。
「ああ、だが幸いにしてそんなおっかない怪物は見なかったよ。誰かが海に落ちたというような話も聞かなかったな」
「他に何か変わったことはありませんでしたか? 船や乗組員に関する噂とか」とザックが重ねて問うと、
「お2方とも、オセアニアクルーズに随分ご執心だね」
「いえ、そういうわけではありませんが…」
「ま、船旅に興味を持つのはいいことだ。
変わったことねえ…そうだなぁ、真田キャプテンとは長い付き合いだが、いつもホスピタリティ精神旺盛な彼が、あの時だけは珍しくナーバスだった感じがしたな。1人でデッキを歩いている時など、何か思いつめたような顔も時々見せていた。
だが、かなり大型の台風が急に進路を変えて、航路に接近してきていたし、それを避けて普段は通らない海域に入らなければならないというんで、いろいろ考えることも多かったんだろう」
「ドラゴントライアングルのバクナワか…」
ザックがそう呟くと、
「その言葉をあまり人前で口にしない方がいいかもしれないな。日本には言霊というのがあるそうだが、ふと口にした言葉が現実になってしまうこともあるし、あらぬ噂を触れ回る老人みたいなのを放置しておくと、それが引き金になってパニックが起きないとも限らない。
以前、紅海クルーズに行った折に、正体不明の船に追跡されてね。すると、誰が言い出したか、“あれは海賊船だ”という噂が船内に広がって——この話には傑作なオチがついてるんだが——しかしその時の騒動ときたら、いやはや——」
長年世界の海を渡り歩いてきたボヘミアンだけあって、シルバーの話は人を飽きさせることがなかった。気がつけばだいぶ夜も更けて、バーの客もまばらになってきていたが、残った中に、ずっと腰を上げず1人でチビチビとカクテルを飲み続けている客がいた。カーキのカーディガンを羽織り、フードですっぽりと頭を覆っている。
ザックは、その後ろ姿に見覚えがあるような気がしたが、どこで見たのか思い出せない。
「話は尽きませんが、明日の仕事もあるので、そろそろ失礼させていただきますよ」
浅井がスツールから降りながらいとまごいをすると、シルバーはもう1度手を差しだして2人と握手を交わし、船旅にはつきものの挨拶を口にした。
「
だが、その言葉をあざ笑うかのような事件が、早くも幕を上げようとしていた。