【4】-7
文字数 2,810文字
間違いない。いつものようにバンドカラーのシャツをラフに着こなし、気さくな笑顔を浮かべている。
「やあ奥寺君、お疲れ様。君がRMAに入ったことは聞いていたが、こんなに早く会えるとはね」
蓮見准教授は、まるでキャンパスで出会ったようなリラックスした様子で歩いてくる。
ガリーが面食らった顔で、
「知り合いなのか?」と四葉を見る。
「僕の大学のゼミを担当している蓮見先生です」
「彼にRMAの話をしたのか?」
「いや…」
「奥寺君はなかなか優秀な教え子で、彼と話しているとこっちもいい刺激になるんですよ。
でも、これからは蓮見ではなく、別の名前で呼んでもらえませんか」
准教授は傘をすぼめて足元に置いた。
「アカデミーのルイ・パスツールと」
そう告げるや否や消火器のホースをこちらに向け、レバーを握り込んだ。
噴射されたのは白い泡の消火液ではなく、無色透明のガスだった。だが、そのガスを吸い込んで数秒もしないうちに激しい脱力感とめまいに襲われ、全員その場に倒れ込む。
目をつぶってめまいに耐えていると、瞼の裏であの夢の光景が再生され始める。
潰れた家、立ち上る黒煙、路上に転がる死体…。四葉は今、黒いガウンの男の視点でその荒れ果てた街を見ていた。首を回して、右側にある商店に目を移す。店のドアは閉ざされ、明かりも点いていなかった。
真っ暗なショーウィンドウに、自分の顔が映り込む。丸眼鏡をかけ、口髭を生やした男。その顔は憔悴と悲しみにやつれていた。
四葉はその男を知っていた。いや、その男の記憶は、もう自分の一部だった。
四葉は思い出す。その男とルイ・パスツールの名前を。
めまいをこらえて寝返りを打ち、腹ばいになった。
「彼がコッホ研究室を離れることになった時、帰国途中に訪れたパリのパスツール研究所であなたに初めて会った。あなたは彼をもてなし、交友の印として“博士の素晴らしい研究に敬意と祝福を込めて”と書き添えた自分の肖像写真をくれた。
彼はそれを一生の宝にして、大切に飾っていたのに」
蓮見、いやパスツールが目を見張って四葉を凝視した。
「まさか…北里君か? これは驚いた。君が彼の魂魄の器になったとは」
四葉は地面に伏したまま、顔を上げてパスツールを睨んだ。
「どうしてアカデミーなんかに入ったんです!」
パスツールは泥土にまみれた四葉を眺めながら、小さく息を吐いた。
「ある学者が “偉大な人は目標を持ち、そうでない人は願望を持つ”と言ったと、この前話したね。あれはパスツールの言葉だ。
あの後、私は偉能者として覚醒したが、この社会をより良いものにしようという目標と、それを必ず実現するという信念はいささかも変わっていない。アカデミーへの加入はその第一歩だよ」
「それで、アカデミーの計画の邪魔になる僕たちを殺すんですか?」
「いや、今回は足止めだけすればいいと言われている。ボツリヌス菌を私のロゴスですこ―しいじって、大気下でも即時に毒素を産生するように変性したんだ。
まあ、2時間ほどで失活するように調整してあるから、明日になればみんなで肩を組んでラインダンスを踊ったりもできるよ。
運が良ければ、だけどね」
四葉には、今絶対にしなければならない話があった。しかし、開こうとした口の感覚に異変が起き、まともにしゃべれなくなる。
「ハーバーが、人の、い、命を奪う、ど、毒を」
快活に話し続けていたパスツールが、ハーバーの名を聞くと初めて眉を寄せ、重い声で言った。
「一線を越えた者は、いつかその報いを受けることになるだろう」
「そ、そんな話、じ、じ、じゃない。ハーバの、けとく、げ、解毒、剤…」
舌がもつれ、伝えなければならない言葉がこぼれ落ちていく。
「できれば君とは戦いたくないが、自分の意志でRMAに入ったのならそうもいくまいな。またどこかで会うことになるだろう」
パスツールは傘を拾い上げ、工事現場から去っていく。
「待っ…」
力を振り絞って起き上がろうとするが、突如体の芯が
自分が知るはずのない細菌の知識が頭に流れ込んでくる。
(おかしい。ボツリヌス毒素は神経毒で、発熱はしないはずだ。主な症状は、視覚障害、発話障害、筋肉弛緩、悪くすれば呼吸停止。特に注意を要するクランケは…)
首を無理やりねじってクリスの方を見た。クリスの唇が紫色に変わり、喉を押さえてあえいでいる。
(チアノーゼが起きてる。早くどうにかしないと)
だが、足元にあるメディカルバッグに四葉が手を伸ばしかけた時、胸の奥の熾火が突風に煽られたように炎を上げた。炎は瞬く間に全身に燃え広がり、四葉を体の内側から火あぶりにする。地面をかきむしって苦痛に耐えた。
炎は四葉を焼き尽くすと、再び収束し、1つの言葉を刻印して消えていった。
四葉は、荒い息を吐きながら、錆びたシャッターのように重い瞼をこじ開けた。視覚障害が起き、景色が二重に見え始めている。萎えかけている腕を懸命に伸ばし、メディカルバッグを引き寄せた。
中から注射器を取り出し、シャツの袖をめくる。自己注射の経験もなかったが、肘正中皮静脈の位置がはっきりわかっていた。
震える手をなだめて、注射針を腕に突き射し、ブランジャーを引く。抜き取られた血液が、注射器のシリンジを満たした。
「い、偉能ロゴス、“抗血清・速産”」
すると、シリンジの中の血液が、手を動かしてもいないのに渦を巻き始め、2色の液体に高速で分離されていく。血球成分が凝固してシリンジの底に沈殿し、黄色味を帯びた上澄み液・抗血清が現れる。
四葉は再び注射針を自分の腕に射し、上澄み液だけを注入した。抗血清が血管を巡り、毒を中和していく。めまいが収まり、体に力が戻ってきた。
すぐさまロゴスを発動し、再び抗血清を作る。クリスのもとに駆け寄り、腕を消毒してから血清を注射した。クリスは意識を失いかけていたが、血清が入ると、目を開けて激しく咳き込んだ。
泥土に倒れてもがいている他の3人にも、次々に血清を投与する。
全員の処置が終わると、激しい疲労に加え、かなりの血液を失った四葉は、地面に膝をついたまま、もう立つことができなかった。
他の偉能者たちはうめき、ふらつきながら、ぎくしゃくと立ち上がろうとしていた。
空を見上げると、雨雲は遠く去り、激しい戦闘などなかったかのように静かに晴れ渡っている。澄み切った夕空の東には、確かに二重の虹がくっきりとかかっていた。
だが、その虹が一体誰にどんな幸運をもたらそうとしているのか、四葉にはもう何もわからなかった。
そして、これから自分が何を信じればいいのかさえも。
第一式第二項
Q.E.I