【2】
文字数 3,351文字
「え?」
「やっぱり聞いてない。一昨日の朝、地震があったよね、って言ったの」
地震と聞いて目が冴えた。
「ああ、2回揺れたよね。大きいのと小さいの」
「2回? 私は1回揺れたことしか覚えてないけど」
「熟睡してて気づかなかったんじゃない?」
「夢を見てたから、そんなに深く眠ってなかったんじゃないかな。なんかねえ、大きな温室みたいなところにいて、可愛い花がいっぱい咲いてて、そこに不思議な色のチョウチョが飛んできたんだ」
「死にかけてたんじゃないのか、絵理朱」と僕は笑いをこらえながらも、「それってモルフォ蝶?」と聞いた。
「違う、モルフォ蝶じゃなかったけど、すごくきれいな羽だった。私、その蝶を追いかけてって、捕まえたかなと思った時に、ドンッて揺れが来て。
あ、夢の話なんかしてる場合じゃなかった。あの朝、学校に行って、すぐみんなに地震の話をしたんだけど、誰も地震が起きたことを知らないの。うちからそんなに遠くないところに住んでる子も、揺れなんて感じなかったって言うんだ。これ、ひじょーにマズくない?」
「マズいって、何が」
「揺れたのはうちとしば兄ぃの家だけだったってことだよ。あれは地震じゃなかったの」
絵理朱は、ファイティングポーズのように胸の前に構えた両こぶしを握り締める。
「地震じゃないって、どういうこと?」
「家自体がおかしくなってるってこと。しば兄ぃの家は何年物?」
「うーん、ひい爺さんが建てたっていう話だから、築70年ぐらいにはなるんじゃないかな」
「70年! うちは中古で買ったけど、我が家もそれぐらい古いってことか。洗面台の水栓が壊れるのも当然ね。
いえ、水栓だけじゃなくて、きっと家全体がガタガタなんだ。耐震補強なんて絶対にしてないと思うし、柱が腐ったりシロアリにたかられたりしてるかもしれない。次に本物の地震が来たら、ぺっちゃんこなっちゃうんじゃない?
ねえ、しば兄ぃの家からネズミやクモが逃げ出してない?庭に迷い込んだ野良猫が産気づいたりしてない?」
色素の薄い頬がすぐに紅潮してくる。
「わかったわかった。親父さんが帰国したら、知り合いの工務店の人に頼んでもらって、家の状態を調べよう。それよりちょっと急ごう。グズグズしてたら遅刻しちまう」
「遅刻? 4時限目から出ればいいから全然余裕だけど」
「こっちの話だよ。ゼミの集まりがあるんだ」
「大学ってもう夏休みなんでしょ?」
駅に向かって足を速めながら答える。
「夏季休暇中のフィールドワークのテーマを決めるんだ。本当はもっと前に決めておくべきなんだけど、学会のスケジュールとぶつかって、先生の都合がつかなかったんだ」
「ゼミのフィールドワークってどんなことするの? しば兄ぃがいるのは人間情報学科っていうところでしょ?」
「何をやってるのかわかりづらい学科だと思うけどね。まあ、簡単に言えば、人間が発信するあらゆる情報に関して、情報システムとか社会学とか心理学とか、いろんな角度から研究して人間社会の発展に役立てようってことだ。
で、今ゼミで昔の民間伝承がどんな生活環境から生まれてきたのかをリサーチしてる」
「リサーチって、昔のことを知っている人に話を聞きに行ったりするってこと?」
「まあ、そういうのが本筋なんだけど、個人的にはそれにプラスしてちょっとした検証もしたいと思ってるんだ。正確に言うと、民間伝承に関わりのある場所を調べて、その伝承に科学的な根拠がないのかどうか確かめてみるってこと。
例えば、“ひだる”っていう妖怪の伝説が残っているところが各地にあるんだ」
「ひだる?」
「旅人なんかがこの妖怪に憑りつかれると、急に疲れや空腹を感じて手足がしびれたり体が重くなったりして、動けなくなるって言われてる。でも、そういう伝説のある土地を調べると、有害な一酸化炭素が溜まりやすい窪地が点在していることがあるんだ。
一酸化炭素中毒は、手足のしびれや倦怠感を引き起こす。だから、ひだるの正体は、実は一酸化炭素じゃないかって言う人もいるんだよ」
「へえ、面白い。それで、しば兄ぃはどこでフィールドワークするの?」
「うん、ニュースで見たかもしれないけど、八ツ島神社と風花渓谷を調べてみようと思う。ただ、風花渓谷の伝承は資料に載ってたけど、八ツ島神社の方がよくわからないんだよな。
天武天皇の御代に八ツ島に流刑になった男が現人神になったとか、言い伝えはいろいろあるんだ。でも、一番知りたいのはそういうのじゃなくて…ガスや霧にまつわる祟り話みたいなのを確かどこかで読んだ気がするんだけどな」
「私、それ知ってるかも」
「え?」
不意打ちを食らって、絵理朱を見つめ直した。
「民間伝承っていうのか、ただの都市伝説なのかわからないけど、前に学校で八ツ島神社の祟りが噂になったことがあるの」
「どんな噂?」
「あそこって池の中に島が8つと、本殿の境内につながる橋も含めて9つの橋があるでしょ。その8つの島を回る時に、間にかかっている橋の上からそれぞれ1個ずつ小石を池に投げながら進んでいくと、8つ目の島まで来た時に霧が湧いてきて、もう一つ別の橋が現れるんだって。
そして、その霧の橋を渡ろうとすると、世にも恐ろしい災いが降りかかるっていうの」
「それって、みんなを怖がらせようとして誰かが作った学校の怪談じゃないの?」
「ところが本当にそれを体験した人がいるんだ。サッカー部のキャプテンなんだけど、噓くさい噂を自分の目で確かめてやろうと思って、雪のちらつく真冬の夜に八ツ島に一人で行ったの。
そして、凍り付くような冬風の中を、橋から小石を投げながら島を巡っていくと、8番目の島に着いた時に、本当に島が霧に包まれ始めた。キャプテンは、寒さと恐怖にガタガタ震えながら、動くこともできずに固まってた。そしたら…」
「世にも恐ろしい災いが降りかかったっていうのか?」
絵理朱が怯えた目になり、小さくうなずく。
「一体、彼に何が起きたんだ?」
「大風邪ひいて寝込んで一番大事な試合に出られなかった。バカだよねー」
駅の券売機の前で2人で大笑いした。危うく電車に乗り遅れるところだった。
彼らが個室の引き戸のハンドルに触ろうとした時、ナース服姿の中年女性が割り込んできて、引き戸を手で押さえた。
「どちら様ですか? この病室には、関係者以外は入れませんよ」
ナース服の胸に、「看護主任 鈴木久美子」と書かれた顔写真入りのネームプレートが留められている。
声をかけられた青年たちが、顔を見合わせる。男性が2人に女性1人。その顔立ちと、地毛っぽい金髪や銀髪を見る限り、日本人だとは思えない。
「関係者以外立ち入り禁止です。日本語、わかりますか? ええと、キープアウト。オンリー、ドクター、ファミリー…」
そこに、白いドクターコートを羽織った40がらみの男性医師がやってきて、
「この人たちはいいんです、患者さんの親戚です。あとは私が引き受けます」と看護主任に説明した。
「親戚の方、なんですか?」
主任が疑わしげに言うと、金髪のショートボブの女性がネームプレートを見ながら口を開いた。
「ええ、そうなんです。お騒がせしました、鈴木主任」
わずかになまりはあるが、流ちょうな日本語だった。
「担当医の榊原です。じゃあ皆さん、中に入ってください」と医師がドアを引き開ける。
金髪女性が2人の青年に小声で通訳らしきことをし、彼らがうなずく。不審顔の看護主任を残して、3人は病室に入った。
「Look at him…」。ドアが閉まると、榊原は英語に切り替えて話し出した。「彼が例の患者だ」
ベッドの上で、左腕を包帯で巻かれた男が眠っている。酸素マスクや点滴のチューブがつながれ、ベッドサイドモニターが患者のバイタルサインを刻んでいた。
「昨日の深夜1時ごろ、西の県道を走っていたトラックの運転手が、荷台で彼が倒れているのを発見した。その運転手は、以前自分が治療を受けたことのある救急病院が近くにあることを知っていたので、そのままそこに彼を運び込んだ。その病院から送られてきた、処置前の彼の画像がこれだ」
榊原は、ベッドの横のワゴンに置いてあるディスプレイを全員が見られる位置に動かして、電源を入れた。3人は息を吞んだ。