【3】-16
文字数 2,695文字
「そこのターバンのお方、いつもお前さんと一緒にいた日本人の男性はどこに行かれた? ひょっとして行方不明になったんじゃないのか?
今日の午後、セキュリティスタッフが総出で捜しておったのが、あんたのお連れさんなんだろ?
隠してもいずれわかる。わしは7272号室にまたあの印が書かれているのを見たんだ。あそこがお前さんたちの部屋だろうて」
マイクが黙り込んだのを見て、老人はますます嵩に懸かる。
「皆さん、お聞きか? これで行方知れずが4人。残りはあと3人だ。亡霊たちがバクナワに食わせる犠牲者を求めて、夜な夜なこの船を歩き回っておるのだ。そして、犠牲者が尽きれば、今度は怒り狂ったバクナワが船を沈めにかかる。
嘘ではない。せがれが参加したオセアニアクルーズでも、この船はその怪物に襲われた。その時はかろうじて逃げきったが、今回はそうはいくまい。
さあ、次に亡霊が目をつけるのは誰かな? それはお前さんかもしれんな、ターバンのお方。7272号室にはまだ印が残ったままなんだろ?」
真田が嫌悪の表情もあらわに、
「失礼」と言いながら人垣を割ってデッキチェアに進み、シルバーも後に続く。
だが、真田が声を発する前に、
「いい加減にしろ! 客を怯えさせて何が楽しい?」
そう怒鳴ったのは、あのガイ・ヘインズだった。
今夜は新妻を連れておらず、怒りのせいか酒のせいか、それともその両方か、この前よりさらに顔が赤らんでいる。
「威勢のいいお若いのか。今夜はお1人だな。おきれいな奥さんはどうされた?」
「先に部屋で休んでるよ」
「本当ですかな? 部屋ではなく、大ウミヘビの腹の中で休んでおるんじゃないのか? それなら犠牲者はこれで5人——」
「もう許さん!」
老人に飛び掛かろうとするヘインズを、真田とシルバーが、
「まあ落ち着いて」と押し止める。
ヘインズは赤い縮れ毛をかきむしって何とか気を静める。
真田が「この場は私に任せてください」とヘインズに言い置いて、老人に向き直った。
「佐伯さん、このクルーズを楽しみにしてこられたお客様方の前で、不安をあおるような言動は慎んでいただきたい。さもなければ、この船を降りていただくことになりますぞ」
朗々とした声がデッキに響く。しかし、老人は意に介さなかった。
「他の客の迷惑になるからこの船を降りろと? わしを船から降ろしたい理由はそれだけですかな?
実はこの前、そこのお若いのが結婚話をしたので、昔せがれから送られてきたメールを見返しましてな。すると、なんとしたことか、せがれが結婚を考えていた女性というのが、真田という方だと書いてあった。あなたと同じ苗字ですな。
しかも、その女性の父親は船の関係の仕事をしているそうだ。奇妙な偶然もあったものだ。何か心当たりはありませんかな?」
「何の心当たりですか? 真田はごくありふれた苗字だ」
2人が睨み合いを始めた時、手すりにもたれかかっていた酔っ払い客が、
「ありゃあ何だ!」と声を上げた。
近くにいた客たちが全員、手すり越しに下を見ると、海面に映し出されたシグノーラの船影の中に、4人の人間のおぼろな姿がある。手すりから覗いている乗客の数はずっと多いので、実物のシグノーラが映り込んでいるわけではない。
その4人は恨むような、すがるような表情でこちらを見つめ、幻影のシグノーラの手すりから腕を差し伸ばしていた。ザックたちもすぐに駆け付け、海を見下ろした。暗くて波もあるので定かではないが、4人の中に小野に似た顔が見えたような気がした。
数秒ののち、波がさらに荒くなり、幻の客船とともに4人の姿は海に溶けていった。
と、その時、一番海側のテーブルに裏返しに乗せられていた3脚の椅子が立て続けにテーブルから落ち、デッキに転がって派手な音を立てた。
「おうおう、亡霊たちが暴れ出しよったわい。わしのせがれが最後に電話をかけてきたのも、ちょうどこの辺りだったはずだ」
そう言って、老人は胸ポケットから1枚の写真を取り出して、船の照明が当たるように高く掲げる。写真には白いジャケットを着た丸顔の青年が笑顔で写っていた。
「ほれ、これがせがれの写真じゃ。ミサキの中にせがれも混じっとるかもしれん。次にミサキの犠牲になるお方、せがれに会ったらよろしく言っといてくれんか」
聴衆を見回しながら、老人は咳き込むような笑い声を立てた。
真田が非難の言葉を口にしかけた時、けたたましい女性の悲鳴が上がった。
見ると、さっき手すりから海を覗いていた女性客の1人が、デッキに倒れ込み、それを連れの男性が抱え起こそうとしている。
さらに、そのそばにいた別の男性客が突然よろめき、手すりに倒れ掛かった。男の体が手すりを越えて海に落ちかかるのを、近くにいた客が数人がかりで押さえ、かろうじて転落を防いだ。
たちまちデッキ中が騒然となる。
「落ち着いてください! 船が少し揺れただけです。潮目に差し掛かると波が立ったり渦を巻いたりすることもあるんです」
「少し揺れただけ? ミサキが次の犠牲者を選び始めたに決まっておろうが」
なおも言い張る佐伯に向かって、
「黙りなさい!」と真田が怒鳴り、
「皆さん、今のように夜間に…」
しゃべり始めた真田の体がいきなり傾き、転びそうになるところをヘインズが慌てて支えた。
真田は青ざめた顔で彼に礼を言い、小声で
「どういうことだ。急に体のバランスを失った」と呟く。
それでも何とか気を取り直して話を戻し、
「今申し上げたように、船が夜間に波の荒い海域を通過することもありますので、当面の間、夜12時以降にデッキに出ることは禁止させていただきます。
ご不便をおかけしますが、乗客の皆様の安全が第一ですので、どうぞご協力ください」
それから佐伯を睨んで、
「さっき伝えた通り、今度皆さんを怯えさせるような話をしたら、あなたにはすぐに船を降りてもらいますので、覚えておいてください」と宣告した。
夜間外出禁止と聞いて、不満の声を上げる者もいたが、ほとんどの客は先ほどの不気味な出来事に恐れをなし、一斉に屋内に引き上げていく。
それを見ながらマイクが、
「今のもホイヘンスの仕業ですかな?」と声を潜めると、
ザックは拳で無精髭を擦りながら、
「多分そうだとは思いますが、しかし…」とダーナを見やる。
「君はどう思います?」
ダーナにも意見を求めるが、彼女は2人を見ていなかった。
彼女が目を細めるようにして見ていたのは、屋内に消えていく乗客たちの後ろ姿だった。