【3】-20
文字数 2,907文字
その顔は、好青年の面影もなく、醜く引き歪み、瞳には憎悪がたぎっていた。
「口が悪いわね。マイクのキャビンで赤い粉を浴びたでしょ? あれは僕が開発したナノサイズの化粧パウダー。あの中には持続性の高い微量の香料成分も混じってて、僕はその匂いを嗅ぎ取ることができる。
昨夜の幽霊騒ぎの最中にその香りがしたから、あの場にいた乗客一人ひとりに接近して、君にたどり着いたの。
僕の超微粒子パウダーが髪に着いたら、1回ぐらい洗っただけじゃ落としきれない。君の縮れ毛ならなおさらね」
ザックが単原子傘をホイヘンスに突きつけて言い渡す。
「正体がバレたからにはもう逃げられません。さあ、洗いざらい話してもらいましょうか」
「ニュートン様のお出ましか。昨日、2等航海士のメモを拾った時、お前の正体もはっきりわかったぜ」
「時計を狂わせて、彼と会うのを妨害したのはあなたでしょう?」
「ああ、こっちが知られたくないことに気付いたようだったからな。
クリスティアン・ホイヘンスは、壁にかかった2つの振り子時計の振り子が、最初はバラバラな周期で動いていても、微小な振動を通して影響し合い、やがて同じ周期で動きだすことを発見した。
俺はその同期現象をロゴスとして使い、時計や通信機、コンピュータの発信回路等々、振動しているあらゆるものの周期をコントロールすることができる」
ホイヘンスが得意げに解説する。
「自慢話はたくさんです」とマイクがホイヘンスを睨み、
「伊集院氏が失踪後にあちこちに出没したのもあなたの仕業ですな? そして、小野君が姿を消したのも。
みんなをどこにやったのです!」
「さあな、あの爺さんの言う通り、幽霊にでもなってそこらをうろついてるんじゃないのか?」
今度はザックがホイヘンスを問い詰める。
「小野君を拉致しなければならなかった理由はもうわかってます。藤堂さんが早送りせずにもう一度船内カメラの映像を全部見直し、違和感を持った理由を教えてくれたんです。
台車を運び入れる時、空荷のはずなのに、あの作業員たちは足を踏ん張り、大汗をかいてやたら重そうに台車を押していた。ところが、帰る時にはおしゃべりしながら、台車を軽々と押して去っていった。
行きは台車に荷物が載っていたのに、あなたが後ろについて光学迷彩で荷物を消していたんでしょう?
そして、小野君は、あなたが迷彩を解いた時に、台車に載っている物を見てしまったんだ」
「伊集院になりすましたり、荷物を消したり出したり、忙しいこったな」
「実際その通りでしょう? 我々はすでに今回のアカデミーの企みも見抜いてますよ。
シグノーラを密輸船に仕立てたんですね?」
「密輸船? 何のことだ」
「とぼけても無駄です。日本のどこかにある工場で作った錬金薬、エリキシルをシグノーラにこっそり積み込み、いったん韓国あたりで降ろしてさらに別の国に移送しようというんでしょう?」
すると、ホイヘンスは腹に手を当てて笑い出した。
「ニュートン様のオツムの出来はその程度か。密輸のために俺たちがこんな手の込んだことをすると思うのか?
本当にお前をアカデミーに入れる価値があるのか疑うぜ」
マイクがザックから受け取ったファラデー・ディスクを構え、ホイヘンスに狙いをつける。
「では、何が目的だというのです? 素直に白状しないと、痛い目に遭いますよ」
「お前らは、さっきから俺を取り押さえる前提で調子に乗ってしゃべくってるが、自分たちの立場が分かってないようだな」
そう言うと、ホイヘンスはポケットからアンティーク調の懐中時計を取り出した。
「北里の家の時はこいつの完成前で、ギロチン振り子の仕掛けを作るのに汗をかかされた。まあ、あれはあれで結構楽しめたがな。
そうそう、ファラデー君にはもう一度、礼を言っておこう。あの時、この鍵を失くしていたら面倒なことになるところだった」
ホイヘンスが指さした懐中時計には、この前マイクが拾ったチェーンのついた鍵が差さっていた。
ホイヘンスは、その鍵を悠然と回しながら、
「さっき、俺が振動しているあらゆるものの周期を操れると言ったのを覚えてるか? 振動してるのは機械類だけじゃないんだぜ」
そして、時計の上についている竜頭を押し込んだ。
「偉能ロゴス“
ホイヘンスがそう唱えた途端、秒を刻んでいた懐中時計の針の動きが遅くなった。それと同時に3人の心臓の拍動が急に遅くなり、全員荒い息を吐きながら体をふらつかせる。
「心筋細胞は電気信号を共有し、同期しながら心臓を一定のリズムで動かす。だが、不整脈患者は心拍が欠落したり、遅くなったりして、重症になると息切れ、めまい、心不全まで起こす。
患者がペースメーカーをつけるのも、拍動のリズムを正常な状態に戻すためだろ?」
ホイヘンスは再び鍵をつかみ、
「さて、今度は心拍数を上げてみようか」
さっきとは逆方向に回した。
針の動きが急加速し、3人とも激しい動悸を感じ、胸を押さえて倒れ込んだ。
「どうだ。胸が苦しくてロゴスを口にすることもできんだろう? さらに拍動が速まれば、血圧が下がって脳が虚血状態になり、やがては植物状態、最後は心室細動が起きて心臓が止まる」
デッキに倒れてもがく3人を見ながら、ホイヘンスはサディスティックな笑みを浮かべた。
「さあ、このまま心拍数を上げて脳を虚血状態にするか、それとも心拍数を一気に落として心臓を止めるか。どっちにするかな」
そう言って、ホイヘンスが指揮者のように高々と手を上げ、懐中時計の鍵に指をかけようとした時、だしぬけに強い風が吹き、その風にあおられた横波が船腹に当たって大しぶきが上がった。
波しぶきは、まるで大ウミヘビのようにホイヘンスに噛みついた。手に持った懐中時計をデッキに叩き落とし、引き波とともにそれを海の中にさらっていく。
「待てっ」
ホイヘンスは手すりから身を乗り出して懐中時計を取り返そうとするが叶わず、ロゴスが解けて3人の心拍数が正常に戻る。
その機を逃さず、ザックがデッキに伏したまま、
「
ホイヘンスの体が浮き上がったところに、ダーナが薙ぐように腕を振って、
「
風の流速差から生じた急激な気圧変化が、糸の切れた凧のようにホイヘンスを連れ去り、船から離れた海面に叩き落とす。マイクがすぐに起き上がって、そばの手すりにかかっていた救命浮き輪を外し、怪力を振るって海に投げた。
浮き輪はホイヘンスから遠からぬ場所に落下し、命からがらそれに取りすがるのが見えた。
「一応泳げるようですな。この気候なら凍え死ぬこともなく、そのうちどこかの岸に流れ着くでしょう」
ダーナがマイクの隣に来て、手すりに肘を乗せる。
「バクナワっていうのの腹に収まらなければ、の話だけどね」
ザックもそこに加わり、
「ホイヘンスを入れれば、シグノーラから消えた人間はこれで6人。老人の言によれば、あと1人か。そして、その後…」
3人は、月に照らされた青白い顔を見合わせた。