【4】-1
文字数 3,255文字
ある日の早朝、四葉は地図アプリと照らし合わせて道順を確認しながら、工場地帯の道を他の調査メンバーと一緒に歩いていた。このあたりは、古くからの小さな工場が立て込み、狭い車道の両側をコンクリートの壁が囲んでいるので、まるで見通しが利かない。
「急がなくてもいいよ、シバ。またはずれクジだとわかって、がっかりするのはなるべく先延ばしにしたいからな」
ガリーが眼鏡を外し、目尻を擦りながら四葉に言う。
この1週間というもの、四葉たちはエリキシルの製造プラントを突き止めるべく、毎日のように廃工場巡りをしていた。
化学プラントは構造が複雑な上に、複数のプラントを持つ工場では、電気や水などのユーティリティを含め、相互に密接に連携している。そのため、掘削機とは違い、既存設備を改造したり、つけ足したりするのは簡単ではない。
かといって土地を取得して新しいプラントを建てる際には、役所や消防への申請・検査手続きが必要になる。
結論的に、アカデミーは各地に点在する廃工場のどこかを利用しているのではないかと推察し、最近再稼働を始めた工場や、廃墟マニアの間で噂になっている廃工場などをピックアップして調査に当たることになった。
だが、再稼働の方はともかく、廃墟マニアのSNSにアップされる噂には、根も葉もないものや誇張されたものも多く、調査開始以来、空振りが続いていた。
「月が出てますね」
声に振り向くと、西の空にうっすら残る白い月を、後ろを歩くカーラが柔らかな表情で見上げている。
拉致事件からしばらくの間、カーラは静養のために戦線から外れていたが、今ではすっかり元気を取り戻し、廃工場の調査に加わっていた。
四葉はいつものように月に見とれるカーラの姿に、何だかホッとするようなウキウキするような気分になりながら、
「あれは“有明の月”って言うんです」と説明した。
「夜が明けてもまだ空に有る月という意味で、満月から新月にかかる頃までは大体見られますよ」
カーラはにっこり笑って、
「日本の人は昔から月が大好きなんですね。月に帰っていくお姫様の物語もあるし、十五夜とか
その点、欧米では、月はロマンティックなものというよりは、 “
ガリーが横合いから話に加わる。
「月並みだが、狩猟民族と農耕民族の違いもあるんじゃないかな。野宿しながら遠くまで狩りに行くハンターにとっては、夜はオオカミに襲われるかもしれない危険な時間帯で、月の風情を楽しむ余裕なんかない。
一方、ファーマーは月の満ち欠けを見て、播種や収穫期の目安にしたり、月にかかる雲によって天候の変化を読み取ったりする」
「なるほど。雲のかかり方や月の見え方によっても、いろいろな呼び名がついてますからね。
そういえば、春霞で月の光が柔らかく滲んで見える
四葉の話を遮り、後ろを歩く調査チームの4人目のメンバーから、イラついたような声がかかった。
「いつまでのんきに月の話なんかしてるんです? マクスウェルが現れたと聞いてわざわざドイツから来てみれば、この調子だ。もっと緊張感を持ってください」
つやのある黒髪をきちんとなでつけ、黒い瞳に細身の丸い眼鏡。年若く、やや神経質そうな感じだったが、眼鏡がなければマクスウェルに少し雰囲気が似ているかもしれない。
「本当に彼が、レオンハルト・オイラーと並び称される数学界の巨人、カール・フリードリヒ・ガウスの魂を受け継いだんですか?」
「ああ、昨日RMAの日本支部オフィスで初めて彼を紹介されたが、性格にかなり難ありでね。呼び名についても、ファーストネームや愛称で呼ばれたくないので、ガウスのままでいいそうだ。
取扱注意で頼むよ」
2人に耳打ちした後、ガリーは真面目ぶった口調に切り替えて、
「ところで、アヴァロンホテルで紫マントの男が使っていたガラスのリングが並んだ楽器についてRMAに調べてもらったんだが、あれはフランクリンが発明した“アルモニカ”という楽器だと判明した。
ただ、背格好からしても、あの男がフランクリンだとは思えん。それで、いろいろ協議した結果、あれはアルモニカを用いて患者の治療を行ったドイツ人医師、フランツ・アントン・メスメルではないかという結論に落ち着きつつある」
カーラが相槌を打つ。
「私もその意見に賛成です。メスメルは催眠術の始祖とも言われ、鉄分を含んだ調合剤を飲ませたり、アルモニカを演奏したりして患者に催眠をかけ、治療を行いました。
私はウエルカムドリンクを一口飲んだ後、気分が悪くなり、拉致されてから意識が戻りかけるたびにアルモニカの音を聴かされ、催眠状態に引き戻されていたので、何があったのかほとんど覚えていません」
「メスメルが治療に用いたアルモニカは、人を狂気に陥れ、死霊を呼び起こして死に至らしめると恐れられ、使用禁止令まで出された。
彼はモーツァルトのパトロンでもあったが、禁止令に背いてアルモニカを使用し続けたために、ついにはウィーンから追放される羽目になった」
四葉は偉能者データベースの記憶をたどって、
「メスメルって“動物磁気”とかいうのを提唱した人物ですよね?」
「ええ、メスメルは空間には磁性を帯びた未知の流体が存在するとし、それが生物の体内を貫流したものを動物磁気と名付けました。
そして、この磁気の不均衡がヒステリーなどを引き起こすと考え、自分の体内に蓄積された動物磁気を患者に与えることで治療を施していました。もちろん、後に動物磁気説は否定されましたが、一部の国では今でもメスメルの磁気療法が代替医療として実践されています」
「体内に蓄積された動物磁気を使う…。そうか、難波市長襲撃の時、ファラデー・ディスクがうまく作動しなかったのも、メスメルが動物磁気で周囲の電磁場を捻じ曲げたせいってことですね?」
「多分そうだろうな。マイクにとっちゃやりにくい相手だ」とガリーが口をへの字に曲げる。
4人は地図アプリを頼りに、入り組んだ道を歩き続け、ようやく目的地にたどり着いた。
真っ赤に錆びて朽ちかけた鉄門が、何とか倒れまいとして踏ん張っている。カンヌキが南京錠のついたチェーンでぐるぐる巻きにされ、立ち入り禁止の看板がくくり付けられていた。
だが、よく見ると、誰がやったのか、チェーンが途中で切断されていて、防犯の用をなしていなかった。
チェーンを外して敷地に入る。
そこには、今までに調べたどの工場よりも強い廃墟感、いや、妖気さえ感じさせる工場がたたずんでいた。
長さは100メートル弱。工場全体が灰色のスレート屋根と壁に覆われていたが、傷みと変色がひどい。工場の奥が一段高くなっていて、その屋根の上に、脚が錆びて傾いた何かのタンクが乗っている。
屋根の下に採光用の小さな窓が2つ、ちょうど両目のように見える位置にはめ込まれていたが、その目尻から血の涙を流したようにスレート壁が黒く変色していた。
四葉は眉をしかめて、
「この工場は、爆発事故を起こして作業員が何人か亡くなり、閉鎖されたという書き込みがネットにあったんで、敷地の管理会社に問い合わせてみたんですが、何も知らない、の一点張り。
臭いものには蓋、みたいに情報をひた隠しにしてるから、廃墟マニアが尾ひれ羽ひれをつけて、作業員の地縛霊がうろついてるとか、工場に住み着いていたホームレスや、マニア仲間の誰それがその霊に憑りつかれて行方不明になったとか、おかしな噂ばかり立つんですよ」
「バカげた話だ。そんな薄ぼけたゴーストとかより、生きた人間の方がよほど厄介に決まってる。
行きますよ」
ガウスが先に立って、カギの壊れた工場建屋のドアを開けた。