【3】-13
文字数 3,014文字
警備室を出た後、ザックたちは雨の中、藤堂の率いる捜索隊とともに小野の行方を捜した。ゲストエリアだけでなく、クルーエリアやユーティリティエリア、救命ボート、貨物室の冷蔵庫も開けたが、小野もエリキシルの痕跡も見つからなかった。
午後5時、シグノーラは、韓国済州島に向かう前の日本最後の寄港地・長崎に向かって出航した。
ザックとマイクは、疲れと失望で重くなった足で、ディナーのための着替えを取りにキャビンに戻った。ザックの部屋の前で2人は別れ、マイクはそこから7つ先の自室に歩く。
マイクはルームキーをかざし、ドアを開きかけたが、ギクリとして手を止めた。
ドアの下の方に、あのマークが書きつけてある。
マイクは担いでいたジェラルミンバッグをそっと下ろし、蓋を開けてファラデー・ディスクを取り出す。腰をかがめながらディスクを構え、ドアを一気に押し開いた。
部屋は薄暗かったが、バルコニーに出る奥のガラス戸が開け放たれていて、端に寄せられたカーテンが風に揺れているのが見えた。それ以外の動きはなく、人の気配も感じられない。
いや。
バルコニーの手すりに何か引っ掛かっている。
マイクはルームキーをホルダーに差し込んで部屋の灯りをつけ、奇襲を警戒しながらクローゼットと浴室、トイレ、ベッドの下をチェックした。それから、ディスクを構え直して、ゆっくりとバルコニーに向かう。
雨はすでに止んでいたが、開けっ放しのガラス戸から雨が吹き込んだせいで、室内の床のかなりのところまで濡れていた。足を進めるたびに、水を吸ったカーペットに靴底が沈む。
バルコニーの照明スイッチを入れ、手すりにかかっている物に目を凝らした。
それは、雨に濡れたウインドブレーカーのようだった。袖が手すりの柵に巻き付いているために、風に飛ばされずにいる。背中の海鳥のイラストが見えた。
小野のウインドブレーカーだ。
マイクは室内からバルコニーの隅々を見回し、慎重に外に出た。さらに、室内を振り返って人影がないことを確認してからウインドブレーカーに近づく。
背中の部分を手で広げてみると、確かに小野が着ていたものだ。だが、この服以外、彼がここにいたことを示す手がかりはない。
マイクはバルコニーのテーブルにディスクを置き、手すりから身を乗り出して階下を覗く。
と、その時、後ろでかすかな息音がし、振り向こうとしたマイクの背中に何かが触れた。
「ファラデー、気をつけろ!」
突如野太い声が響いたかと思うと、キャスケット帽の男が部屋に飛び込んで来た。
ハッと息を吞む音がして、マイクの背中にあった感触が消えたが、マイクがディスクを取ろうとすると、テーブルごとひっくり返された。
濡れたバルコニーの床を蹴立てるかのように、室内に向かって歩幅間隔で次々に波紋が現れ、それが通り過ぎるのと同時に、床に落ちていた黒い滴のようなものが消えた。
キャスケット帽の男はベッドに飛び乗り、ポケットから取り出したものを投げつけた。花の香りのする赤い霧がばっと広がり、部屋の半面を覆う。
だが、その霧が吸い込まれるようにして消えていった場所があった。まるで赤い模造紙を人型に切り抜いたかのように、その部分だけ後ろの壁が透けている。
「そこか! “
バルコニーから吹き込む風の流れが急に変化したように感じられた瞬間、透明な人型が壁に叩きつけられる。人型はうめき声を上げたが、透明な腕がテレビの上に掛かっていた飾り皿をつかむと、男に投げつけた。男はベッドに伏せてそれをよけ、皿が後ろ壁に当たって砕ける。
人型は赤い霧から抜け出し、開いたドアの外に消えた。男も後を追って飛び出したが、もう人型は薄暗い廊下に溶け込んでいる。男は廊下の壁を見回し、間接照明の縁についていた小さな突起物をもぎ取って部屋に戻る。
部屋の中では、マイクがディスクを構えて立ちはだかっていた。
「あんたは何者です!」
男はマイクの姿をしげしげ眺め、さっきまでの野太い声とは打って変わった可愛いらしい声で笑い出した。
「その恰好じゃ、目立つなという方が無理だろうね。君こそ何者だって言いたいところだけど、マイケル・ファラデーさんでしょ?
初めまして、ダニエル・ベルヌーイです。国籍はスイス。女性なので、ダーナって呼んで」
そう言ってダーナが口髭と帽子を取ると、見事なブロンドの長い髪が現れた。
マイクから知らせを受けたザックも加わり、挨拶と握手が交わされる。
「ロンドンミーティングでは会えずじまいで残念でした」
ダーナはにっこり笑って、
「あの時僕は、クリスたちが交戦した原生林周辺の調査をしてたからね。ポーランドとベラルーシを行ったり来たりしたけど、結局収穫はなし」
男のメイクをしているので年齢が読みづらいが、髪つやや声の質からすると二十歳そこそこだろう。顔は全体に小づくりだが、バービー人形のように目が大きく明るい。
「さっきは助かりました。ありがとう」とマイクが改めて礼を言い、ザックも、「よく来てくれました。まさにモルジアナのごとしだ」と賛辞を贈る。
「モルジアナ? それ誰?」
「いえ、何でもありません」
「それにしても、私が襲撃されることがどうしてわかったのです?」とマイクが聞くと、
「RMAからあなたたちがこのクルーズに参加すると聞いて、僕も応援に来たんだけど、いろいろキナ臭い噂が耳に入ってきたから、あなたたちとはコンタクトを取らずにこの船を調べることにしたの。
今夜は2等航海士とは別の誰かがあなたたちを見張っている感じがしたんで、こっそり後をつけてきたら、マイクの部屋にあのマークがついているのを見つけてね。
僕は副業で探偵をしてるから、鼻が効くのよ」
ダーナは、つんと上がった可愛い鼻先を指でちょんとつつく。
「副業で探偵? 本業は何ですか?」
「詳しいことは言えないけど、化粧品関係の研究開発。ベルヌーイも香料貿易商の御曹司だったそうだけどね」
「だから変装メイクもお手の物というわけですな」
2人は納得顔になる。
「2等航海士に気をつけろというメモをくれたのもあなたですか?」
「ええ。だけど、彼やキャプテンの部屋にメモを入れたのは僕じゃない。さっきの透明人間の仕業かも知れないけど、クルーや乗客を混乱に陥れようと暗躍してる連中がいるみたい」
「それで、さっきの襲撃のことですが——」とザックが話を続けようとするのを遮って、
「ねえ、お腹すかない? 僕はもうお腹ペコペコ? 詳しい話は食事の時にってことでどう?」
マイクが腕時計に目をやり、
「そうですな、ディナーの時間に遅れそうだ」
すると、ダーナは椅子から立ち上がり、ザックとマイクを見比べる。
「マイクは身バレしちゃってるからザックね」
そう言って、ブレザーの内ポケットから取り出した指輪をザックに渡す。
「あなたが船で失くした結婚指輪を見つけたわ。着替えてくるからエレベーターホールで待っててね、ダーリン。パウダーチークの片付けは私が後でするから触っちゃだめよ」
唖然として指輪を眺めている2人を残して、ダーナは部屋を出ていった。