【4】-3
文字数 3,453文字
構造物は、コンクリートの床と橋桁がちょうど平行になる位置まで上昇し続け、汚水を滴らせながら停止する。その振動で、左の方の支柱に引っかかっていた白骨化した何かが、ズルリと滑って汚水の中に落下した。
カーラがガリーに聞く。
「これが、看板に書いてあった“
「多分な。そして、行方不明のホームレスの居場所もわかったよ」
「さっきの死骸ですか?」
「ああ。エリキシルかハーバーの作った毒物の実験台にされた後、ここに捨てられたんだろう」
水中から現れた橋は、1本橋ではなく、交差点を囲んでつながっている四面歩道橋に似たいびつな菱形をしていた。しかし、菱形の左右の角はどこにも通じておらず、一番手前の角から伸びた橋桁が4人のいるコンクリートの床に、一番奥の角から伸びた橋桁がビニールカーテンがかかった向こう岸につながっているだけだった。
そして、その2つの角を結ぶ対角線上にいくつかの橋が連なって、まっすぐに通れるルートができている。橋桁の幅は3メートルほどで、両側に手すりがついていた。
「向こう岸までは、この対角線を行くのが距離的に一番近い。まず僕が先に最初の橋を渡ります」
ガウスはそう言って、汚水で濡れた手すりに触らないようにしながら、目の前に架け渡された橋を慎重に進み、菱形の橋の最初の角を支える支柱の頭のところに着いた。
ガウスが振り向いて合図し、残った3人も橋を渡る。
支柱の頭の部分は、直径4、5メートルぐらいの丸い鉄の床になっていて、全員が乗っても十分な広さがあったが、4人がそこに来たのと同時に、中央部分に緑色に光る文字が浮かび上がり、柱が振動し始める。
「何が始まったんだ?」とガリーが警戒しながら、中央の表示窓に近づいて文字を見ると、2つの数列が並んでいた。
1つは、「234.5」という謎のデジタル数字。もう1つは時間を表す「20:00」だったが、いきなりそれが「19:59」に変わり、カウントダウンが始まる。
「嫌な予感しかしないんだが」とガリーが呟くと、ガウスも即座に頷く。
「僕も同感だ。引き返しましょう」
だが、柱頭部から降りる寸前、今渡ってきた橋桁のコンクリート岸側の先端がお辞儀をするように見る見る下がり始め、汚水の中に没していった。
カーラが不安げにガリーを見る。
「通路兼トラップがゴーストレッグの正体ということのようですね?」
「くそっ! リミットは20分だ。先に進むしかないな。それもできるだけ速やかに」
4人は対岸に向かって足を急がせる。プラントエリアに続く連結橋の中ほどに2つ目の支柱があり、丸い柱頭部に乗ると、再び234.5とカウントダウンを続けるデジタルタイマーが表示される。
そこは菱形の左の角に向かう橋への分岐点でもあったが、そっちを通ると遠回りになるので、そのまま直進する。
ほどなく菱形の一番奥の角に着くが、その柱に4人が乗った途端、プラントエリアに渡る橋桁が傾き始め、手の打ちようもないまま汚水の中に沈んだ。さらに、今進んできた背後の橋も降りていき、退路も断たれてしまう。
タイマーも止まらない。
ガウスが「筆記具を貸して」と四葉に言う。
四葉がメディカルバッグからメモ帳とペンを取り出すと、橋全体を見渡していたガウスが、その見取り図を素早く描きつける。
それを覗き込んだガリーが聞く。
「もしかして、ケーニヒスベルクの橋か?」
頷いたガウスは、瞬時に何かの計算をしたようで、
「だとしたら、矛盾式を解かなければならないことになる」と険しい表情になった。
ガウスの出した答えにガリーもすぐにたどり着き、足元のデジタル表示を見ながら切迫した声で、
「234.5という数字については?」
「不明です」
「俺たちの現在地は、この図のCだ。ここからDに行くかEに行くか、どっちにする?」
デジタルタイマーはすでに15分を切ろうとしている。
「左回りだとすぐに選択肢が絞られてしまう。考える時間がほしい。
右回りなら最後の選択まで時間に猶予ができる。ついてきてください」
ガウスは、小走りにDに向かい始める。
四葉たちも後に続きながら、ガリーに、
「ケーニヒスベルクの橋って何ですか?」
「昔、東プロイセンの都市ケーニヒスベルクに中洲を挟んで流れる川があり、そこに7つの橋が架かっていた。住人たちは、その7つの橋をそれぞれ1回だけ渡って元の場所に戻ることができるかどうか議論したが、オイラーはそれが不可能であることを数学的に証明したんだ。
これはいわゆる一筆書きが可能かどうかという問題だが、軍が退却する際に戦車ですべての橋を壊しながら自陣に入るためのルート算出に使うこともできる。オイラーは7つの橋の配置を抽象化し、幾何学の問題に置き換えた。
それは、後に位相幾何学という学問分野に発展する。例えば、まったく別ものに見えるドーナツと持ち手のついたマグカップは、位相幾何学からすればどちらも貫通した穴を1つ持つ物体に分類できるんだ」
「それで、この菱形の橋は一筆書きできるんですか?」
「一筆書きができる図形は、すべての頂点が偶数個の辺とつながっているか、2つの頂点だけが奇数個の辺とつながっているか、そのどちらかでなければならない。
そしてこの橋は、A、C、Eの3つの頂点が奇数個の辺とつながっている」
「じゃあ、どこをどう通っても一筆書きはできない…」
「ああ。しかし、恐らく制限時間内に一筆書きを完成させなければ、この橋が汚水の底に沈むというトラップになっているんだろう」
「でもどうすれば一筆書きを?」
その時、四葉が抱えて走るメディカルバッグの外ポケットから、ウエットティッシュが詰まったポリ袋が飛び出し、手すりの隙間から汚水に落ちる。
袋は一瞬水面に浮かんだが、すぐに表面に皺が寄り、溶け崩れて沈んでいった。
「まさに死の沼だな」
先に支柱Dに着いたガウスが怒鳴る。
「何を落としたんだ!」
「ウエットティッシュの袋です。すいません」
「貴重な時間を無駄にしないでくれ」
3人がDの柱の上に乗るや、ガウスはすぐに出発点のAに向かって走り出す。
4人がAに着いた時、デジタルカウンターはすでに9分を切っていた。その上の数字は「234.4」と微妙に変化している。
しかし、立ち止まって考えている暇はない。全員がEに向かって走り始めると、C→D、D→Aの橋桁に続き、Dの柱自体も死の沼に沈んでいくのが見えた。
「柱の上に留まることも許されないんですね」とカーラが唇を嚙む。
Eに着くとすぐにAの柱も沈む。残っているのは今いるEと、B、Cの支柱、そしてE→B、E→C、B→Cにかかる橋だけ。A→Bの橋はとっくに沈んで跡形もない。
ガリーが、大きく息を吐く。
「さあ最後の選択だ。
Bに行き、渡った橋とB→Cの橋が沈めば、Bに取り残される。Cに向かえば、一筆書きは完成しないが、プラントエリアに渡る橋が復活するかもしれない」
だが、ガウスは首を振った。
「いや、多分それは僕たちを誤答に誘い込む罠だ」
四葉があることを思い付き、提案する。
「二手に分かれるのはどうですか? 僕がBに向かい、橋の途中で立ち止まっている間に3人がCに行けば、すべての橋を通ったことになる」
「それは僕も考えた。でも足元を見てくれ」
234.4
「この数字は4人の総重量だ。最初は234.5キログラム。さっきウエットティッシュを落としてマイナス0.1キロ。Cに着いた時、重量が大きく減っていれば、そこでトラップが発動するんだろう」
カウンターは残り5分。ガウスが決断を下す。
「Bに向かおう。途中に何か手掛かりがあるはずだ」
4人はBに渡る橋を駆ける。しかし、橋を渡り終えるところまで来ても、何の変化も手掛かりも現れない。
ガウスはBの柱のすぐ手前で立ち止まり、頭を振った。
「このままこの柱の上に乗るわけにはいかない。きっと我々が見逃していることがあるんだ…。
もしかすると、立看板に書かれていたゴーストレッグというのは、橋のことを指しているんじゃないのかもしれない。
ゴーストレッグ…どこかで聞いたような気がするんだが」
思案する間にもカウントダウンが進み、残り時間がどんどん減っていく。
ガウスの額に汗の球が浮かんだ。