【６】－４

　3つの影がスツールから立ち上がった。全員、耳にインカムのイヤホンマイクを付けている。
背後には、船内で最高の眺望を誇るガラス窓が巡り、複雑に入り組んだ湾内の景色が広がっていた。

　3人の中で一番恰幅のいいシルエットが、手に持った杖をザックに差し付けた。
「カムフォードはやはり君の母校じゃないか、ニュートン君」
　聞いたことがあるどころか、さっき話を交わしたばかりの声が言う。
「シルバー！　あんた、西園寺夫人と一緒に下船したんじゃなかったの？」
「やあ、カムフォード夫人、ではなくベルヌーイ嬢だね。
　タラップまで丁重に西園寺夫人を送ってから、用を足すと言って中に戻ったよ。なにせ彼女とは長い付き合いだからな。

　ところで、シルバーというのは、船旅仲間の間での呼び名だ」

　シルバーは下を向いてサングラスを外し、右目を覆う黒いパッチを付けた。そして、顔を上げると豊かな黒髪をかき上げ、威厳に満ちた声で告げた。
「これからは、オイラーと呼んでもらおうか」
　その名前に、皆、驚愕の目を見張った。
「レオンハルト・オイラー！　数学界の単眼巨人(サイクロプス)」

　オイラーの左隣の、初日にバーで後ろ姿を見かけたカーキのカーディガンの男がフードを取る。おなじみのスキンヘッドにツルのない丸眼鏡。
「渓谷以来だな、ニュートン」
　ハーバーがカーディガンを脱ぎ捨てると、その下から愛用の軍服が現れる。
「あなたをずっと探していましたよ」
「売れっ子はいつも忙しいのさ」

　そして、もう1人。今まで見たことのない、若い男がニヤついている。
「おやおや、まだわからないの？」
　いぶかるザックたちに、
「これならどう？……“とうとう7人がいなくなった。ミサキの呪いじゃ”」
　急に声がしわがれ、あの老人の声になった。

　だが、変装を解いた姿は、白髪以外、老人とは似ても似つかなかった。悪魔的な微笑をたたえたその顔は、実在の人間とは思えないほど美しい。真っ白な髪色に透き通るような肌、黒いカラコンを外した瞳は鮮やかすぎるほどのルビーレッド。
　明らかに色素欠乏症。そうでなければ、こんな瞳の色になるはずがない。

「アヴァロンホテルじゃ惜しいことした。もう少しで邪魔者を消せたのに」
「紫マントの男。あんたがメスメルですか！」
　マイクが叫ぶと、
「そう、マントや特殊メイクがないといろいろと不便でね。久しぶりに素顔になったよ」
　確かに、素顔のままでは目立つなという方が無理な注文だ。白い髪、ルビーレッドの瞳、そしてこの美貌。街を歩けば、すれ違った女性、いや男でも振り向かずにはいられないだろう。

　ザックが問いただす。
「君が佐伯老人に成りすまし、ホイヘンスやオイラーが佐伯老人の言動を咎めるようなふりをしながら、騒ぎを大きくした。すべては、乗客に不自然に感じさせずに、真田キャプテンに夜間外出禁止命令を出させるためですね」
　オイラーが空っとぼけた口調で、
「ほう、我々がなぜそんな手間のかかることを？」
「この船が密輸船ではなく、

動くエリキシル製造プラント

だったからですよ。
　原料となる“塩”は、ホイヘンスがカモフラージュしながら運び入れ、それを使って船内にしつらえたプラントでエリキシルを製造していた。この船で瀬取りをするのは困難だが、作った製品の荷袋を深夜に海に投げ入れるぐらいは簡単だ。
　水中スクーターにでも乗ったダイバーが、その荷を受け取って近くに停泊している貨物船に届け、国外に輸送するという段取りでしょう。シグノーラと前後するように何隻かの貨物船が港を出入りしていましたからね。

　関谷夫妻や伊集院氏の言う海中の青い不気味な光は、海竜の目などではなく、水中スクーターのライトだった。それで、その話を詳しく聴取される前に彼らを拉致しなければならなかったし、同時にこれ以上目撃者を増やさないために、夜間外出禁止命令を発令させることが必要になった」

「動くプラント？　想像力がたくましすぎんかね」
「ごまかしても無駄ですよ。製造時に出る有毒な廃液を船内に溜めておくわけにはいかない。それを処理するために、あちこちでこっそり海に捨てていたんでしょう。このクルーズのルートに沿って魚が怪死していることを知ったクリスは、私と同じ結論にたどり着き、先ほど連絡をくれました。
　このことを真田キャプテンも知っているんですか？」

　メスメルが肩をすくめ、
「ふん。融通の利かない人間だって噂だったからな。買収するのは止めにして、代わりにアルモニカで操らせてもらったよ」
「そして、オートパイロットの設定を変更させて、小田島さんが危険だと言っていた浅い海域に船を誘導したんですね？　船から投下した荷袋をダイバーが拾いやすいようにするために」

　オイラーが首を振る。
「いやいや、オートパイロットの設定をいちいち変えるような面倒なことをする必要はない。船のオートパイロットは、ジャイロコンパスから送られる方位信号を基に舵を自動制御し、設定されたルート通りに船を走らせる。
　そして、ご存知だろうが、ジャイロコンパスは高速回転するコマの原理によって常に真北を指すように作られている。

　さて、ここで質問だ。コマ、つまり回転する剛体の運動方程式を作ったのは誰だったかな？」

「オイラー方程式か」
「左様。そのロゴスでジャイロコンパスを操って偽の方位信号を発信させれば、それを受けたオートパイロットは間違った方向に航路を取ることになる」
　メスメルが話を継いで、
「後は僕が真田と浦瀬に船は正しいルートを航行しているという暗示をかけるだけさ」
　だが、マイクが指摘する。
「ブリッジではGPSによる位置情報も参照しとるはずです」
「僕の動物磁気ロゴスが、電磁波障害を起こせるのを知らないわけじゃないだろう」
　
「それで肝心な時にスマホがつながらなくなったのか」とマイクは歯噛みし、
「では、おかしなメモを渡したりして小田島さんまで巻き込み、キャプテンたちに乗客殺しの濡れ衣を着せたのは何のためです？」
「濡れ衣だって？」とせせら笑うメスメル。
「ファラデー、あんたって本当にお人好しだな。国際友愛協会でも創設したらどうだい。
　あいつらは佐伯の息子を殺してるよ」

「何ですと！」