第29話

文字数 3,669文字

 私は、ビビった…

 正直、どうしていいか、わからんかった…

 35歳の矢田だ…

 3歳のマリアに、腕力では、負けるわけは、なかったが、マリアをうまく説得する自信がなかった…

 しかも、

 しかも、だ…

 今、この矢田が、

 「…マリア…暴力は、いかんさ…」

 と、言った、その舌の根も、乾かぬうちから、マリアを腕力=暴力で、無理やり、言い聞かせることなど、できんかった…

 できんかったのだ…

 だから、私が、どうして、いいか、わからんかったので、困っていると、

 「…矢田さん…もういいです…」

 と、アムンゼンが、声をかけた…

 次いで、

 「…矢田さん…ありがとうございます…」

 と、アムンゼンが、この矢田に礼を言った…

 「…バニラさんも、ありがとうございます…」

 と、アムンゼンが、バニラにも礼を言う…

 「…お恥ずかしい姿をお見せしました…」

 アムンゼンが、言いながら、椅子から、立ち上がって、私たちに頭を下げた…

 それから、マリアに、

 「…マリア…ぶってくれて、ありがとう…おかげで、目が覚めたよ…」

 と、アムンゼンが、言った…

 が、

 これには、マリアが、驚いた…

 なぜなら、いつも、マリアと同じセレブの保育園に通うアムンゼンとは、違うアムンゼンが、目の前にいたからだ…

 大人のアムンゼンが、いたからだ…

 だから、マリアが、

 「…アンタ…ホントにアムンゼン?…」

 と、呟いた…

 呟いたのだ…

 当たり前だった…

 目の前にいたのは、いつもセレブの保育園で接するアムンゼンではなく、大人のアムンゼンだったからだ…

 マリアの問いかけに、

 「…そうだよ…」

 と、アムンゼンが、優しく答えた…

 それは、正真正銘30歳の大人のアムンゼンが、3歳の子供のマリアに、言う言葉だった…

 私は、驚いた…

 驚いたのだ…

 それは、初めて見る大人のアムンゼンだったからだ…

 いつもの、子供を演じているアムンゼンでは、なかったからだ…

 …一体、なぜ?…

 一体、どうして、アムンゼンは、素の姿に戻ったのか?

 不思議だった…

 不思議だったのだ…

 そして、とっさに、

 …リンか?…

 と、気付いた…

 きぅと、アムンゼンは、リンに恋する余り、素の姿に戻ってしまったのだ…

 素の姿=30歳の大人の姿に戻ってしまったのだ…

 私は、気付いた…

 気付いたのだ…

 そして、それに、気付いたのは、私だけではない…

 オスマンも同じだった…

 「…オジサン…」

 と、呟きながらも、アムンゼンの外見の変化に真っ先に、気付いた様子だった…

 素の姿に戻ったアムンゼンの姿に気付いた様子だった…

 きっと、リンに恋する余り、普段の子供を演じることが、難しくなったのだろう…

 リンに恋する余り、30歳の素の姿に戻ったのだろう…

 私は、そう見た…

 私は、そう睨んだ…

 この矢田トモコ、35歳の目に狂いはない…

 断じて、狂いは、ないのだ!…

 私が、そう思っていると、またも、マリアが、

 「…リンって誰?…」

 と、アムンゼンに聞いた…

 さっきと同じ質問を繰り返したのだ…

 私は、ビックリしたが、それ以上に、マリアの母親のバニラが、ビックリした様子だった…

 戸惑った様子だった…

 「…マリア…」

 と、戸惑いながら、マリアのカラダを掴んだ…

 もしや、マリアが、アムンゼンに無礼なことを、しないかと、心配だったのだろう…

 マリアを身動きできないように、羽交い絞めにした…

 が、

 それを見て、アムンゼンが、

 「…おおげさ過ぎますよ…バニラさん…」

 と、穏やかに、言った…

 優しく言った…

 「…マリアを離して、やりなさい…バニラさん…」

 引き続き、アムンゼンが、バニラに優しく、言う…

 が、

 しかし、それは、命令だった…

 アムンゼンの命令に他ならなかった…

 慌てたバニラが、

 「…ハイ…殿下…わかりました…」

 と、言って、急いで、マリアを離した…

 自分の娘を離した…

 すると、今度は、マリアが、不思議がった…

 「…ママ…どうして、アムンゼンの言う通りにするの?…」

 と、不思議がった…

 バニラは、どう答えて、いいか、わからんかった…

 どう、うまく返答していいか、わからんかった…

 とっさに言葉が出なかった…

 まさか、アムンゼンに言われたから、その通りにしたとは、言えんかったからだ…

 だから、言葉が、出んかったのだ…

 すると、それを、見た、アムンゼンが、

 「…バニラさん…マリアの言う通りです…ボクが、バニラさんに、なにを言おうが、全然、無視しても、構わないのですよ…なぜなら、バニラさんは、ボクの部下でも、なんでもないのですから…」
 
 と、穏やかに言った…

 それを、聞いたバニラは、ますます、なんと答えて、いいか、わからん様子だった…

 ただ、

 「…殿下…そんなこと…」

 と、だけ、言った…

 それ以上、なんて、言っていいか、わからんかったのだ…

 だから、私が、言ってやった…

 バニラの代わりに、言ってやった…

 「…アムンゼン…オマエ、案外いいヤツだな…」

 と、言ってやった…

 アムンゼンを褒めてやったのだ…

 と、この矢田の言葉は、アムンゼンにとって、意外だったようだ…

 「…矢田さん?…」

 と、初めて、私の存在に気付いた様子だった…

 「…どうして、ここへ?…」

 「…どうしても、なにも、私が、オマエに謝りに来たのさ…」

 「…矢田さんが、ボクに謝りに?…」

 「…そうさ…」

 「…だったら、それが、ボクに謝りに来る人間の態度ですか?…」

 と、アムンゼンが、指摘した…

 言われてみれば、その通り…

 まさに、その通りなので、二の句が告げなかった…

 だから、

 「…」

 と、黙った…

 言葉が、見つからなかったからだ…

 すると、

 「…でも、それが、矢田さんです…矢田トモコさんです…」

 と、アムンゼンが、続けた…

 「…謝りに来るときも、いつもと同じ格好…しかも、菓子折りひとつ持たず、やって来る…でも、それが、矢田さんです…」

 アムンゼンが、言う…

 「…でも、それが、いいんです…矢田さんらしくて、いいんです…相手が、誰であろうと、まったく関係がない…いつも、同じペース…にも、かかわらず、誰からも嫌われない…誰からも愛される…これは、矢田さんだから、できること…矢田トモコさんだから、できることです…」

 アムンゼンが、力説する…

 それまで、落ち込んでいた様子のアムンゼンが、別人のように熱く語る…

 私は、なんと言っていいか、わからんかった…

 そもそも、アムンゼンが、私を褒めているのか、けなしているのかも、わからんかった…

 わからんかったのだ…

 だから、

 「…アムンゼン…オマエ…私を褒めているのか? それとも、けなしているのか?…」

 と、聞いてやった…

 聞いてやったのだ…

 すると、即座に、

 「…褒めているに決まっているでしょ?…」

 と、アムンゼンが返した…

 「…サウジアラビア本国で、ボクにそんな態度を取ったら、死刑ですよ…矢田さんには、前にも言ったはずです…」

 「…し、死刑?…」

 「…矢田さんには、前にも言ったはずですよ…」

 たしかに、言われてみて、今、思い出した…

 たしかに、以前、このアムンゼンが、言った…

 今と、同じことを、言ったのだ…

 それを、思い出した私は、面食らった…

 正直、面食らった…

 同時に、恐ろしいことを、したと、思った…

 思ったのだ…

 これが、もし…

 もし、アムンゼンの機嫌の悪いときなら、この矢田の身が、どうなっているか、わからんからだ…

 最悪、このアムンゼンの言う通り、死刑になっても、おかしくはない…

 そして、そのことに、誰も文句は、言えないに違いない…

 例えば、この矢田の身を拉致して、サウジアラビア本国に連れて行き、この矢田が、死刑になったとする…

 それを知ったとしても、日本政府は、

 「…これは、大変、遺憾なことです…」

 と、いう、いつもの決まり文句を言うに、違いない…

 いわゆる、遺憾砲というやつだ(笑)…

 サウジアラビアのみならず、どこの国とも、揉めたくない…

 だから、正式に外交ルートを通じて、文句の一つも言えないから、

 「…これは、大変、遺憾なことです…」

 と、なる。

 どこの国に対しても、弱腰な日本政府…

 どんな状況になっても、どこの国とも、揉めたくない…

 だから、そういう対応になる…

 私は、その事実に、気付くと、自分の身のヤバさに気付いた…

 今さらながら、気付いた…

 だから、慌てて、

 「…すまんかったさ…」

 と、アムンゼンンに詫びた…

 アラブの至宝に詫びた…

 「…これまでの非礼を許してやってくれ…大目に見てやってくれ…」

 と、詫びた…

 詫びたのだ…

 すると、だ…

 「…なんの真似です…矢田さん…そんなことをして…」

 アムンゼンが、この矢田に聞く…

 「…なんの真似だと? …どういう意味だ? この矢田が、謝っているんだゾ…」

 私は、言ってやった…

 「…今さら、遅いです…賽(さい)は投げられたんです…」

 アムンゼンが、言った…

 非情にも、この矢田トモコに宣言した…

               
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