39 わたしの帰る場所は……

文字数 1,876文字

 わたしは、この世界で、この体で、いったいなにをしているんだろう……。
 気がつくとミシスは、たった一人で、大海原に浮かぶ小さな島の上にいました。
 一本の草も樹木も生えておらず、小石の一つ、貝殻の欠片一つさえ落ちていない、完全に漂白された砂粒だけでできている島です。
 ミシスはその島の真ん中に、仰向けに寝ていました。
 身に着けているのは、白い星の刺繍がちりばめられた青いローブ一枚だけ。
 ぱっちりと開かれた青い瞳に、雲一つない真っ青な空が映り込んでいます。空の青さがその瞳を青に染めているのか、それとも瞳が青いから空が青く見えるのか、もはや見分けがつきません。
 上体を起こしてぐるりを見渡します。
 しかしどこを向いても、まったくおなじ景色しか目に入りません。一本の水平線によって、世界はただ海と空とに二分割されているだけです。
 この島のほかには、なに一つ目につくものはありません。波のない紺碧の海が、あらゆる方位の果ての果てまで広がっているばかりです。
 ひとまず立ち上がってみます。
 島は三分も歩けば一周できてしまうほどの大きさしかありません。そしてそれは先程までミシス自身がとっていた体勢とそっくりな、大の字で横たわる人間の形をしています。
 今、ミシスはその心臓のあたりに立っていることになります。
 風はまったくありません。
 なんの音も聴こえません。沈黙が耳に痛いほどです。
 そしてなにも感じません。なにかを感じさせてくれる材料が、この世界には一つとして見あたらないのです。
 それからふと、自分のまわりに広がっているこれは、実は海のように見えて海じゃないのかもしれない、という考えが、ミシスの頭のなかに浮上します。だって海にしてはあまりにも静かだし、穏やかすぎる……。
 でも、じゃあ、海でないなら、なんなのだろう。
 このたくさんの底なしの水は、いったいなんなのだろう。
 そこで初めて、まともな感情らしきものが、胸の奥から湧き上がってくるのを感じます。
 それは、本人にもよくわからないけれど、たぶん名づけるなら、不安、あるいは恐怖、それともその二つの混合物、としか言いようのないもの。
 ミシスはぶるっと全身を震わせ、身にまとうローブを手繰り寄せて体に密着させます。
 心なしか、ローブからは、ほんのりと懐かしく甘い香りがします。
「そうだ」ぱっと顔を上げてミシスはつぶやきます。「帰らなきゃ」
「どこへ?」
 ぎくりとして、声のした背後の方を振り返ると、いつの間に現れたのか、そこにはミシスよりいくぶん小柄なべつの少女が立っていました。
 人の形をした島の、ちょうど顔面の中央の、鼻の頂点あたりにまっすぐに立つその姿や表情は、ミシスのいる位置からは逆光になっているため、よく見ることができません。
「あなたは誰?」ミシスは手をまぶたのうえで(ひさし)にしてたずねます。
「言ったでしょう。あなたがどこへ行こうと、あなたとわたしが離ればなれになることはないんだって」
 その言葉の意味が、ミシスにはうまく理解できません。ただ心細そうに声を絞り出します。
「わたし、帰りたいの」
「どこへ?」
「どこへって……それはもちろん、わたしの帰る場所は……」
「あなたの帰る場所は?」
「わたし……」ミシスは言葉に詰まります。「わたしの帰る場所は……」
「ねぇ、どこなの? あなたの帰る場所って、どこ? どうやって、そこまで帰るの?」少女はなおも問い続けます。
 突如ミシスは、自分の体が縦に真っ二つに引き裂かれるような感覚に襲われます。
 うめき声をもらして頭を両手で抱えると、その場に両膝をついてしまいました。
 時をおなじくして、海のように見えるたくさんの水が、ざぶさぶと不穏な音を放ちながら、四方八方から島を浸食しはじめます。
 水位はみるみるうちに上昇し、あっという間に島をまるごと呑み込んでしまいます。
「いやっ……」
 短く叫んで、ミシスは何度も強く頭を振ります。
 見知らぬ少女はかすかに笑みをこぼすと、とつぜん背中に鳥のような翼を生やし、ふわりと空中へ舞い上がりました。
 その逆光のなかの天使のようなシルエットを見あげながら、ミシスは、自分にも翼があったらな、と切実に思います。
「あなたの翼は、いったいどこに置いてきたの?」
 太陽と重なった少女の黒い影がそう言いました。
 水は今やミシスの腰のあたりまでせり上がってきています。
「帰りたい」ミシスは両目をぎゅっと閉じて祈ります。「わたし、帰りたい。帰らなきゃ……待ってるから……」
 水面が口と鼻を超えたところで、悲鳴を上げてミシスは夢から醒めました。
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