三十九 期日指定メール

文字数 2,583文字

 午後。
 本流の奥山川と支流の岩魚川の岸辺の所々に柱状節理の岩壁が見える。どちらの流れも、一昨日夕刻からの雨で増水したままだ。釣り人は雨など気にせず岸辺を移動し、増水した流れに釣り糸を垂れている。吊り橋から傘を差した者たちが、釣り人の釣果を期待するかのように、川を見下ろしている。本流も支流も増水に関わらず川底の石が見え、濁りの無いいつもの清流だ。
 事件があった事などこの風景に存在しない。事件は消えない。ただ記憶から消えてゆくだけだ・・・。
 真理は奥山川の増水した清流から、旧奥山館の広間に視線を戻した。柱状節理の岩壁が視界から消え、遠ざかっていた現実の事件へ意識と感情が戻ってゆく。
 柱状節理の岩壁は、忘却へのスターゲートか・・・。


 伯父さんは、殺害者はいなかったと考えているらしい。殺害されずに人が死ぬのは、事故か、病気か、自殺だ。病気は考えなくていい。事故か?それとも自殺か?
 殺害を計画して実行しようとしたら、目の前で事故が起こった。あるいは自殺した。
 その時、殺害を計画した者はどうする?計画を助けた者たちはどうする?どちらも罪に問われないだろう。それなら、なぜ奥山渓二郎は三人を殺害したといったのか?
 なあ、サスケ、と真理は佐介に考えをささやいた

「真理さん。推理より実証が先ですよ。
 山本刑事、こっちに・・・」
 佐伯が山本刑事たちを呼んだ。三人の死亡後、遺品を調べたが、殺人の手がかりは無かった。佐伯は、殺人を除いた死亡要因を含め、再度、三人の遺品を調べ直すよう指示した。
「了解しました」
 山本刑事たちは客室へ向かった。今、三人の遺品はここ旧奥山館の客室に置かれている。
 奥山渓二郎の自宅になっている旧奥山館も旅館だ。奥山渓二郎の住居部を除けば、旅館の施設はそのまま機能している。
「佐伯さん。屋上のベンチに靴跡が無いか、調べた方がいいと思います」
 佐介が提案した。
「そうですね。私も、福原富代がどのようにして屋上の手摺りを越えたか、ずっと引っかかってましてね。すぐ手配しましょう・・・」
 佐伯は通信機で鑑識に指示した。

「ベンチに靴跡があっても、福原富代の自殺か他殺か区別できねえぞ」
 真理は考えを述べた。死亡した福原富代の爪に皮膚片と繊維が残っていたのは、福原富代と奥山渓二郎の行動が相反する事を意味している。
「その疑問は、結果を見てから判断しましょう・・・」
 佐伯は真理に目配せした。三人の遺品とベンチの検証から何らかの結果が得られる、と佐伯は考えているらしい。

 一時間も経たないうちに屋上の鑑識から、
「ベンチに二十四センチのスニーカーの靴跡が残ってます。他の靴の痕跡はありません」
 と連絡が入った。雨で、ベンチの汚れが浮きあがり、その上をスニーカーが踏んだため、靴跡が残ったとの報告だった。二十四センチは福原富代のスニーカーのサイズと一致する。
 明け方から小雨になり、今は雨があがって陽射しが強さを増している。照りつける太陽と屋上のコンクリートの照り返しに、汗をかきながらスニーカーの靴跡を発見し、自分で手摺りを越えようとした福原富代を想像して作業したであろう鑑識を思い、真理は思わず、
「皆さん、ありがとう・・・」
 と感謝を口にしていた。
「そうだね・・・。皆、ほとんど寝てないからね・・・」
 佐介も、昨日の午後からつづいている迅速な警察官たちの行動を知っている。


「佐伯さん!こっちに来てください・・・」
 三人の遺品がある客室から、山本刑事が佐伯を呼んだ。
 客室で山本刑事は携帯とにらめっこしている。

『いつか、ここに戻ると思ってた。
 やっぱり、もう、逃れられない。
 永久に、ここに留まることにしたわ』

「これ、福原富代からのメールです。昨日は無かったんです」
 山本刑事は山田勇作と福原富代が使っていた私物の携帯電話を見ている。
 アド・イベント企画から支給された山田勇作と福原富代の仕事用携帯電話は、特設野外ステージと奥山館の屋上からの落下でいずれも破損している。
 福原富代の私物の携帯に送信記録は無い。山田勇作の携帯が福原富代のメールを受信したのは今朝の〇時だ。
 真理は訊いた。
「これって、誕生日の期日指定メールだよな。今日が山田勇作の誕生日なんか?」
「そうです。山田勇作の誕生日です」と山本刑事。
「福原富代は山田勇作と、何日も前からこの地に永久滞在する事を話しあってた事になりますな。つまり、みずから飛び降りると・・・」
 佐伯は真理を見て微笑んだ。メガネの奥の佐伯の目が鋭さを増している。
 佐伯はもう一度、奥山渓二郎を広間に呼んだ。


 奥山渓二郎が座卓に着いた。真理がお茶をいれると佐伯はいった。
「福原富代さんが殺害されたか、そうでないか、実証するのが先でしたから、三人の遺品を調べ直すよう指示しました。
 私、福原富代さんがどうやって屋上の手摺りを越えたか、ずっと引っかかってましてね。
 屋上にベンチがありましたね。あれを調べるよう手配しました。
 あなたが実行犯の場合、奥山館の従業員の多くが共犯者になります。
 その事を理解していますね」
「・・・」
 奥山渓二郎は黙秘した。

 佐伯は奥山渓二郎に山田勇作の携帯を見せた。

『いつか、ここに戻ると思ってた。
 やっぱり、もう、逃れられない。
 永久に、ここに留まることにしたわ』

「福原富代さんが生前、山田勇作さんの誕生日に届くよう期日指定で送ったメールです。
 今朝〇時に山田勇作さんの携帯が受信しました。福原富代さんの携帯の送信記録は消されていました。
 それと、屋上のベンチに福原富代の靴跡だけがありました。
 あなたが山田勇作さんと福原富代さんを殺害した証拠はありません」
 佐伯は座卓の向こう側に座って顔を伏せている奥山渓二郎の顔を覗きこむように見た。
 昨夜、十時頃。奥山館本館の屋上に、奥山渓二郎間と福原富代がいた。死亡した福原富代の爪に皮膚片と繊維が残っていたのは、福原富代と奥山渓二郎の行動目的が相反する事を意味する。

「・・・・」
 あいかわらず奥山渓二郎は何もいわない。
「ほんとうの事を話さないまま、従業員の多くを共犯者にする気ですか?
 そうなるとこの奥山館は、閉館になりますよ」
 佐伯刑事は座卓のお茶を手に取った。
「わかりました・・・」
 奥山渓二郎は顔をあげた。
「昨日の午前・・・」
 奥山渓二郎は説明した。
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