四十三 再出発

文字数 4,644文字

 八月十四日、土曜日、午前十時頃。
 奥山館の正面玄関に、奥山館の送迎バスが停車した。運転しているのは奥山誠支配人だ。
 車内には奥山郷の年寄りたちが乗っている。
「さあ、どうぞ、お乗りください」
 高須客室係が乗車を促した。
 鞠村まりえは奥山渓二郎の妻さち子の左手を取ってバスのステップへ導いた。さち子がステップに足を乗せると、甲斐ソレアと麻生玲香がさち子の右肘と腰を支えた。鞠村まりえはさち子の左肘を支えている。

「すみませんね。まり子さんと子供たちにこんなにされたら、あとが寂しいわ」
 さち子は左肘を支える鞠村まりえの左手の甲に右手を重ねた。
 あの若かった手がこんなに血管が浮いて、私のような節くれだった指になってる・・・。
 ステップに足をかけて、さち子はふと足下を見た。鞠村まりえの足が見える。
 あの傷だらけだったが、弛みも染みも無い綺麗な足が、今は私のようにむくんでる。
 いったい、どれだけの苦労を重ねて今に至ったのだろう・・・。
 でも、あの幼い姪たちが、こんなに大きく綺麗になって・・・。
 この娘たちが、まり子の支えだったのだろう・・・。
「ありがとう。登れたわ。まり子さんを支えてね」
 さち子はバスの通路に立って、甲斐ソレアと麻生玲香に微笑んだ。

「はい、さち子さん!」
 二人は屈託ない笑顔をさち子に向け、両脇から鞠村まりえの肘を支えて、まりえをステップの上へ押しあげた。
「あら、たいへん!二人にかかったら、まり子さんも、まるで旅行用の荷物ね!」
 さち子は二人のきびきびした動きに感心し、声を立てて笑った。
「もう、さっちゃんたら、まり子だなんて。まりえでしょう。まりえ叔母さんだよ」
 甲斐ソレアがさち子に微笑んでいる。孫娘が祖母に話しているようだ。
「あら、もうイヤだ。私は、さっちゃんなの?」
 友だちのような呼び方に、今の若い娘は目上だのと区別をしないんだわとさち子は思った。しかし、さっちゃんと呼ばれ、さち子はまんざらでもなかった。
 歳を経ても心に残っている感動は若いまままだ。周りが年寄り扱いするから年寄りになってゆくだけで、若者扱いされれば気持はそのまま若い・・・。身体もそのようにして気づかっていれば、もっと若くしていられたのではないか・・・。
 そんな事を考えてさち子が通路に進むと、
「はい、さっちゃんはこっちだよ」
 甲斐ソレアがさち子を中程の右側、窓際の席へ導いた。
 鞠村まりえは麻生玲香に導かれ、さち子と反対側の左側、窓際の座席に導かれ、それぞれがその横に座った。

「全員、乗りましたか?」
 高須客室係が乗客を確認した。
 奥山渓二郎は運転席のすぐ後ろに座り、運転席の奥山誠支配人とともに乗員を確認している。
「佐伯さんたちが、まだですね」
 奥山支配人が話している間に、佐伯夫妻と佐介と真理が小走りに走ってきた。
「すみません。遅くなりまして!」
 四人がステップを登り、前方の座席に座った。
 高須客室係が乗りこみ、バスのドアが閉じた。
「皆さん。シートベルトをしてますか?」
 高須客室係の問いかけに、
「してます!」
 と乗客から声がする。
「では、出発します」
 高須客室係の言葉と同時に、奥山誠支配人はバスを発車させた。


 バスは奥山館の正面玄関を出発し、本流の奥山川にかかった吊り橋を対岸へ渡り、左に奥山川を左に見て、奥山川沿いに国道を登ってゆく。カーブの多い国道は、この先に居住する人がいなくなった今も、全面舗装されている。
 この国道の先は行き止まりでなく、国営試験牧場を抜けて隣りの市へ通じている。この隣の市からの国道は、かつてあの三人が宗谷慎司を運んだ開発途中の国営試験牧場建設用地へつづく専用道路でもあった。

 鞠村まりえはバスの左の窓際に座っている。
 車窓から奥山川を見て鞠村まりえは思った。
 あの時、この道路は砂利の道だった。雨が降っていた。
 靴を履いてなかったから、雨水が流れる轍をさけて、道路のまん中を歩いた・・・。
 車は一台も走っていなかった・・・。
 必死だった・・・・。

 奥山渓二郎の妻さち子は、運転席のすぐ後ろに座っている夫の渓二郎を見つめた。渓二郎は観光へでかけるように、隣りに座っている高須客室係と話している。
 この国道をバスが走っても、渓二郎は、かつては砂利の道だったこの道路をまり子さんが歩いてきた事を思いださないのだろうか・・・。私は、何度ここを走っても、あの夜の事が記憶から消えない・・・。
 あの夜、まり子さんは二人の姪を背負って、雨のこの国道を素足で下ってきた。
 足は砂利で傷つき、身体は雨に濡れて冷えていた。
 背負った姪たちは、どこで手に入れたかわからない、袖がなくなったレインウェアにすっぽり包まれたままぐっすり眠っていた。腹のすわった子供たちだった・・・。
 さち子は隣に座っている甲斐ソレアの手を取ってさすった。甲斐ソレアは、なあに?というように、さち子に微笑んでいる。

 まり子さんと子供たちが保護された後、渓二郎は私に何も話してくれなかった。だけど、何が起こっているか、私はわかっていた。国会議員谷村太郎が訪ねてくるたびに、お茶を運んだ私は、二人の話を小耳にはさんでいた・・・。私は二人の長年の計画を止める気はなかった。私も夫と同じ気持だったから・・・。
 さち子は、渓二郎を訪ねた当時の国会議員谷村太郎を思いだしていた。

 十五年ぶりに会ったまり子さんは、昔のか弱いまり子さんではなかった。企業を経営し、姪たちをモデルに育て、賢く図太い母になっていた。これなら夫たちの計画を実行できると私は確信した。計画を手助けするのは支配人を務める息子誠であり、従業員たちは奥山村から移住した者たちの家族なのだから・・・。

 さち子は左車窓を過ぎゆく奥山川の風景を眺めながら、山田勇作、関口虎雄、福原富代の三人が死亡したの日の事を思った。


 八月八日午前。
 雨の中、渓二郎渓二郎がでかけた後、さち子は旧奥山館の広間から渓二郎の姿を追った。
 渓二郎が吊り橋を渡ってまもなく、山田勇作が河原のステージから跳躍するのが見えた。渓二郎は山田勇作に手をくだしていなかった。さち子は信じられなかった。
 いったい、山田勇作に何が起こったのだろう・・・。
 考えても、思い当る事は何もなかった。
 渓二郎は何食わぬ顔で帰って来た。さち子が、なぜ山田勇作が野外ステージから跳躍して死亡したのか訊いても、渓二郎は何も話さず、動じた様子はなかった。

 夜九時すぎ。
 旧奥山館の温水ポンプが止まった。過電流が流れて、動力用のブレーカーのスイッチが下りたらしかった。配電盤は奥山館本艦の地下倉庫内にある。
 渓二郎は、
「見てくる。しばらくかかるよ」
 と作業用の革手袋をしてでていった。地下倉庫の担当は安藤貢副支配人だ。何かあっても任せておけばいいのに、いつも渓二郎は倉庫へ行って、安藤貢副支配人と楽しそうに修理している。渓二郎にとって、ちょっとした工事は趣味の延長のようなものだ。
 幸子はふと思った。
 今夜も、過電流が流れたか漏電の有無を調べる名目で、倉庫へ行く口実を作ったのだろう。もしかしたら、安藤副支配人とともに、関口虎雄をどうにかするのではないか・・・。いや、漏電ブレーカーが下りたのだから、すでに関口虎雄を、安藤貢副支配人がどうにかしたのかもしれない・・・。
 一時間ほどで渓二郎は帰ってきた。ひたすら何かに驚いたのを隠そうとしていた。しかし、人を殺害してきたような感じは無かった。長年ともに暮してきた渓二郎だ。異変があればすぐにわかる。思った通り、渓二郎は幸子に告げた。
「山田勇作につづき、関口虎雄も福原富代も自殺した・・・」
 出所後の五年間を真面目に勤務し、それなりの責任ある立場になった彼らが、なぜ、自ら命を絶ったのか、幸子は理解できぬまま推測した。
 きっと、宗谷慎司が生き埋めによる窒息で死亡したと知った時から、三人は生きる希望を無くしていたのではないか・・・・。三人は悔い改めた十五年を過して、ここ奥山郷に戻る機会を待っていた・・・。死ぬために・・・。


 さち子は渓二郎から、関口虎雄も福原富代の自殺を聞いた時を思いだして、渓二郎の気持ちを感じた。渓二郎はその事に気づいたから、三人をただ葬るのではなく、弔う気になったのではなかろうか・・・。夫なりの、罪を悔い改めた者への心遣いなのではなかろうか・・・。


 国道は奥山川を離れ、つづら折りの上り坂になった。
 坂の先の開けた高原が旧奥山村である。
「まもなくですよ」
 奥山渓二郎が乗客に告げた。
 つづら折りの国道を登り切ったバスはしばらく走り、国道からそれて旧奥山村の村道に入った。分かれた国道の先へ目を転ずると、薄野原に廃屋が点在し、その間に、アスファルトの国道が延びていた。

 バスが停止した。
「さあ、到着しましたよ。
 祭壇を設けてあります。そこでお経をあげていただいて納骨します。
 皆さん、祭壇の方に移動してください」
 奥山誠支配人がバスのドアを開けた。草の香りを含んだ高原の風がバスへ吹きこんだ。

 墓地のそばの広場にテントが張られ、その中に祭壇がしつらえてあった。
 祭壇には三人の遺骨が祀られている。
 祭壇の前で、安藤副支配人が奥山郷林秀寺の平永林秀住職とともに待っていた。
 人々がテントに入り、住職による一連の挨拶の後、読経が響いた。

 読経が終り、ふたたび住職が挨拶し、三人の遺骨はそれぞれの家の墓へ移され、納骨された。
「皆様、ありがとうございました。それでは、皆様は、御先祖様にご挨拶をなさってください」
 安藤副支配人の挨拶で、参列者はそれぞれの家の墓へ移動し、お盆の挨拶をしている。
「さあ、私たちも・・」
 鞠村まりえは、甲斐ソレアと麻生玲香を宗谷家の墓へ導いた。隣りの墓は、奥山渓二郎の先祖の墓だ。娘たち二人は鞠村まりえとともに、宗谷家の墓に手を合せた。
「私たちには、私たちを支える多くの人々がいる・・・・。
 亡くなっている人も、生きている人も、みな、ここにいて、私たちを支えてる・・・」
 奥山渓二郎の妻さち子は胸に手を当て、誰に語るともなくそうつぶやいていた。

「サスケ、撮るの?」
 テントの外で周囲の草原を見ていた真理は佐介を見つめた。草原にはかつての畑の畝が起伏状に残り、丈の短い草が波打つようにつづいている。
「いや、撮らない・・・」
 佐介はかつての畑に目を転じた。風が草原を吹き抜け、出はじめた薄の穂が揺れている。

 三人の死を、新聞各紙は単なる自殺として小さな記事にして、原因となった十五年前の一連の事件には何一つ触れなかった。地域の発展を懸念して、警察と地元住民が過去の事件との関係を何も話さなかったためだった。佐介たちも、そうした配慮を忘れなかった。
 今さら、ジャーナリズムだなどといって真実を並べ立てて十五年前の事件を蒸し返し、地域の経済発展を妨げる事はない・・・。事実を明かせば、この地域は十五年前の状態に戻り、この畑のように荒れはて、二度と耕作できなくなるかもしれない・・・。
 そう思いながらテント内にいる佐介は佐伯夫妻を見た。高原の風が吹きこみ、テント内は涼しい。
「佐伯さん。何かあったら編集長の説得を頼みますね・・・」
 佐介は佐伯を見つめた。
「わかりました。捜査協力を依頼した事、田辺編集長に連絡しておきましょう。
 夏休みを増やすよう話しておきますよ。この話は内緒ですよ」
 佐伯は佐介と真理に目配せした。
(了)
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